唐津街道紀行アルバム



一日目
若松宿から芦屋宿(若松街道)
 赤間宿を目指すには、小倉ー黒崎宿ー木屋瀬宿ー赤間宿のコースと
小倉ー若松宿ー芦屋宿ー赤間宿のコースがあるが、本日は芦屋宿コースを紹介いたします。

若松の町中は都市化の影響で旧跡を見出すことは出来なかった。街外れの「小敷」「太閤水」
の井戸が残っていた。太閤が名護屋出陣の際に立ち寄られ、召し上がられたという。

 芦屋の町に入る手前に「安徳天皇行在所の石碑:大君神社」があった。安徳天皇と平家一門が立ち寄られたことを示しています。その後、遠賀川の橋を渡り、昔、岡湊と呼ばれ、繁栄した芦屋の町に入ります。江戸時代は福岡藩の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波郡の年貢米の集積地物資の積出港として隆盛を誇り、「芦屋千軒、関千軒」と下関と並び称せられるようになりました。
 宿場跡、役所跡、劇場跡、岡湊神社等歴史的な遺構が沢山あり、奈良時代より栄えた港町であることを再認識いたしました。


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二日目
芦屋宿から赤間宿
 芦屋:粟屋をスタートし、垂水峠道経由で赤間宿ヘ向かう。途中、遺構みたいなものは殆ど見当たらない。札所、須賀神社、氏森宮と出会った後、海老津の町に出た。海老津から右手に城山を仰ぎ1時間程耽々と歩く。
 赤間宿と表示されたモニュメントの前に到着。赤間宿を見学する。
唐津街道の宿駅、筑前二十一宿のひとつである赤間宿。街道筋には、旅館や商家が立ち並び、この付近一帯の交通、文化、経済の中心であったそうだ。現在も辻井戸や造り酒屋をはじめとする商家等、江戸時代からの建物が多く残っている。

 造り酒屋の一つは、出光の創業者「出光佐三」の生家であるそうだ。


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三日目
赤間宿から畦町宿








四日目
畦町宿から青柳宿
 前回の終点地の赤間宿から原町宿を経由し畦町宿ヘ向かう。赤間宿の町並みは情緒豊かで、辻井戸 あたりにはには目を奪われます。
 一時間程歩き、原町交差点を右折した途端、古き懐かしさを残す町並みに出会いました。町並みには、「唐津街道原町」と書かれた木製の「辻行灯」が並んでいます。
 ここは福岡と唐津の大名が参勤交代する時に通った道で、赤間宿と畦町宿の中間に位置し、明治から大正にかけても様々な商店が建ち並び大変な振わいだったそうです。旧家を利用した古美術商等個性的な店がありました。
 大穂町「唐津街道標識」を見て更に進みますと「太閤水」の標識のある井戸に出会いました。
この井戸は、太閤が島津征伐の途中に、この清水でのどをうるおしたと言われており、地元では「太閤水」と呼んでいます。

 黒田藩は参勤交代の際に赤間宿と青柳宿を指定していましたが、宿場間が約4里と遠すぎるということで、新たに形成されたのが畦町宿す。畦町宿は、宿泊のための宿場ではなく昼食や休憩が目的だったので、本陣や脇本陣などはなく、庄屋宅や寺を利用していたらしい。県道からはずれた南側を走る旧道は、車の通行がほとんどなくてのんびりと散策できます。

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 前回の終点地であった「畦町宿」JR福間駅から、バスで向い、内殿から青柳宿を目指し、スタートする。
 やがて、細い自然道の「ならの木坂」と出会いました。です。坂を登り切ると急に視界が 開け、県道と合流しました。
 この県道を横切り、左側の坂を登ると「玄望坂」、この辺りに「駕籠立場」あるはずですが見つけることは出来ませんでした。
 旧道が消え、道に迷いながら、進みますと「旦ノ原の井戸」に出会いました。旧糟谷・宗像二群、村境にあり旅人はここで喉を潤したとの事です。「二群、四ケ村の井戸ひとつ」とも呼ばれた
そうです。
 その後、「唐津街道道標」「畦町への道標」を見つつ前方へ進みます。「大根川」を渡り、高速道路ガード下をくぐり、「青柳四角」に到着しました。炎天下の中、良く頑張りました。

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五日目
青柳宿から箱崎宿
 JR古賀駅で下車、前回の最終点であった、「青柳四角」へバスで向かう。本日は箱崎宿を目指す。
青柳宿の古い醤油屋、太宰府神社道、青柳宿構口を横目に香椎へ向かう。

 五所八幡宮前を通過し、しばらくすると、太閤が名護屋出陣の際、飲んだと言われる「太閤水」
出会った。その後、「夜泣き観音」前を通過し、国道3号線を横切りしばらくするとると、新宮和白境
「古道(殿様道)」に入った。薄暗い自然道を耽々と歩行する。古道を抜けると、明るくなり眼前には
「立花山」が見える。島津軍の猛攻に耐えた立花城址があるそうだ。一旦、3号線に出るも、再び旧道
に入る。「あきあかね工房」前の道路が旧道である。秋山町を通り、鹿児島本線を跨線橋を渡ると
香椎に着いた。
 旧官幣大社の「香椎宮」の横を通り、多々良中の前を通過し、しばらくすると、雨乞いの神として祀ら      れている「わくろ石」があった。
 その後、旧道にある「大橋」「新橋」を渡り、「箱崎宿」に入る
「筥崎八幡宮」の前には「従是東表粕屋郡」   と刻まれた「群境石」がありました。



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六日目
箱崎宿から西新宿
 「筥崎八幡宮」を起点に西新宿を目指す。しばらくして右手の方、「崇福寺」に着く。臨済宗大徳寺派の
寺院で福岡黒田藩の菩提寺でもあるそうだ。山門は福岡城の本丸表御門が移設されたものらしい。
 その後、石堂地蔵尊、濡衣塚、梵字板碑を見て、「石堂橋」を渡る。左側には古刹が並んでいる。
昭和通りと並行して走る旧道を往く。しばらくすると国の重要文化財である「赤煉瓦文化館」があった。
 この裏側には「水鏡神社」があった。建ち並ぶオフィスビル谷間にひっそりと建つ 「水鏡天満宮」 は、
学問の神様・菅原道真を祀っている。九州最大の繁華街「天神」の地名は、天神様を祀るこの神社に由来
しているらしい。

 天神で休憩・昼食の後再び歩行するも、都市化が著しく旧道が見出せない。大手門で、「藩校修猷館跡
を見つけた。その後、唐人町商店街を経て、「鳥飼八幡宮」、「金龍寺」前を通り、西新商店街に至り、本日
の目標を達成した。



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七日目
西新宿から周船寺宿
 本日は雨の中、傘をさしての歩行となりました。地下鉄「西新駅」到着、直ぐに歩き始めました。藤崎で「猿田彦神社」が 進行方向の左側にありました。
 「室見橋」を渡り、しばらくすると右手に「愛宕神社」が見えました。ほどなく「姪浜宿」に到着。ほぼ昔のままの姿で町屋が保存されているようです。街道歩きの人間にとっては心が落ち着きます。縁起の良い開運神社で有名な「住吉神社」の前を通り先を急ぎます。
 「JR下山門駅」前位から、「生の松原」が広がりを見せました。浜辺に出て「元寇防塁跡」を探しましたが、通り越したようです。眼前にはベタなぎの中、「能古島」が浮かんでいます。右手遠くには「姪の浜地区」が見えます。やはり海は良いものだとつくずく感じました。
 それからは、海岸沿いの道となり、遠くに「今宿」が見えてきました。今宿は都市化の影響で古さが失われているように感じました。ただ、「追分石」に出会った時は、ホットいたしました。
 今宿を出ると、山側に旧道が走っており、耽々と歩きました。途中、「丸隈山古墳」があり、これを見物し、しばらくすると「周船寺宿」に到着しました。

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八日目
周船寺宿から大入宿
 残念ながら本日も雨貴重な休日であるので本日も決行する事にする。周船寺宿をスタート、大入宿を目指す。1時間程で「前原宿」に到着。入口に立った時、昔風の家並みが並んでおり、ワクワクした気持ちとなった。
 期待通り、保存状態も良く、「脇本陣跡の綿屋」「問屋場跡」「代官所跡」、「追分石」等の遺構を見物する事が出来た。その後深江宿を目指し、202号線沿いにほぼ並行している旧道を耽々と歩く。神在地区に入ると、「西宮神社」、「諏訪神社」、「熊野神社」等神社が一杯あった。それで、神在地区と言うのかな?、更には「銚子塚古墳」もあり 懐古趣味の私を楽しまさせてくれた。神在地区の外れには「加布里追分石」があり、これから旧道にはいるが昔のままのようであった。「松末稲荷」の前を通ると、「石橋(羅漢橋)」があり、いよいよ前原宿である。
 「大燈篭」前を左折すると、一直線に大きな「屋敷群(旧家)」が連なっており、昔の繁栄ぶりが窺えた。「深江神社」の前を通り「猿田彦」前の旧道を右折する。しばらくすると、「梵字石」があった。何とも不思議な字である。
その後、国道を横切ると、九州最古の万葉碑があるという「鎮懐石八幡宮」に出会った。
(神功皇后が応神天皇を懐妊され新羅征伐された時の由来があるらしい)、202号線に出て、海岸線を歩行する。佐波海岸で「わくどう石」
があった。「わくどう」とは、土地の方言で「ガマカエル」を意味するらしい。江戸期の旅人は「往って還る」と縁起をかついだそうだ。佐波「薬師堂」を左目に、大入駅をめざした。本日は、古い街並み、遺構に恵まれ充実した歩きであった。

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九日目
大入宿から浜崎宿
 今日は素晴らしい快晴。ここ二日間、雨の中の歩行であったので、大入宿を気持ち良くスタート出来た。「立花峠」を越え、鹿家の自然道を通り、県境に至り、佐賀県の「浜崎宿」を目指す。
 まずは、大入宿「庚申塔」を右横目に、福吉宿へ向かう。大入宿、福吉宿とも202号線に沿って旧道が海側を走っている。左手に「女岳」「浮嶽」を見て、真っ直ぐに西へ伸びた旧道を歩く。左右には立派な屋敷群が散見される。福吉宿の外れから国道を横切り「西縄手第三踏切」を跨ぎ、「立花峠」を目指す。炎天下の中、急坂を登るのはかなりきつい。峠を越え、鹿家の旧道を歩く。途中、民家の横から、狭い「自然道」となり、真っ暗の中を マムシを気にしながら慎重に進む。突然、明るくなり、みかん畑に出た。又、右手にキラキラ輝いている玄海灘が望めた。みかん畑に沿った旧道を下って行くと202号線に出た。
 右手に玄海灘を眺めながら、しばらく前進すると、「国境石」「包石」があった。これから、佐賀県である。右手には、浜玉漁港があり、その後ろには台形状の「鏡山」が見える。唐津も真近な所に捉えた様だ。
 浜崎宿は近代化され、道路も拡幅されれいるものの、昔の面影は残されているようであった。
次回は、いよいよ最終コーナーの「唐津城」である。次回の天気を祈りながら帰路に着いた。

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十日目
浜崎宿から唐津宿
 本日も素晴らしい天気です。姪の浜、周船寺が雨天であった事を考えるとウソみたいです。「虹の松原」を経て「唐津城」までゆっくり歩く計画です。家内も同伴で、「浜崎宿」をスタートし唐津城を目指します。
 「三保の松原」「天橋立」と共に日本三大松原と言われる松原を歩くのは初めてですのでワクワクとした気持ちになります。静かな松原を歩行してしばらくすると、対馬藩と唐津藩の境界点を示す「国境石」がありました。何で対馬藩?と思うのが自然だと思います。長崎街道の轟木宿でも同様な場面をみましたので今回は驚きませんでした。飛び領とかいうものがあったようです立派な「大嵩の松」に驚き前進しますと「二軒茶屋」に出会いました。
 ここで小休止。右手に国民宿舎を見てしばらくしたところで、松林が消滅したようです。二里松原とも言われているようですので二里は歩いてきたはずです。
 ここから炎天下、古い東唐津の町並みを通り、「唐津城」を目指します。「八幡神社」を通過し、しばらくした所に「舞鶴橋」があり、そこから「唐津城」がしっかりと望めます。
 唐津城は秀吉の側近寺島志摩守広高が7年の歳月をかけ慶長13年に完成させた城であり、東に虹の松原、西に西の浜の松原を従えていることから、これを翼に見立てて「舞鶴城」とも言われているようです。この唐津城をたっぷり見学した後、家内と共に「唐津街道」完歩の祝杯をあげた次第です。

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十一日目
木屋瀬宿から赤間宿
 若松宿を起点に唐津宿まで完歩した後、赤間宿へ向かうもう一つの道:木屋瀬宿から新延、永谷、群境(鞍手郡、宗像群間)を経て赤間宿へ向かう道を歩きました。
 現在では、地方道の直方・宗像線が旧道に当たります。木屋瀬を出て、遠賀川の橋を渡り「牟田池」を左に見て赤間宿を目指します。「田頭」、「上町」、「中町」等、旧道風情が残っている町を通過し、「新延」に入ります。ここには、「大塚古墳跡」の側を旧道が走り、「自然道」も残っていました。
 その後、「六反田」を通り、しばらくすると、しっとりとした昔ながらの町屋が約1km程続いている「永谷」がありました。木屋瀬、赤間宿間の「間宿」だったと思われました。ここを通り抜けると、群境の「猿田峠」でした。
 猿田峠を降り切ると、宗像郡の「高六」、昔の旧道そのものに見えました。「吉留」を通り抜けると「武丸」、ここには、赤間の庄11ケ村の総鎮守として厚く崇敬されている「八所宮」の大鳥居、ならびに「亀ノ尾」酒造所の伊豆本店がありました。間もなく、右側に「須賀神社」の鳥居が見え、「赤間宿」に到着したようです。

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