北陸街道テクテク歩き第四日目(金沢宿から小松宿)

  

金沢宿から小松宿を目指し、37、000歩、約25kwを歩きました。見所は、白山と手取川でした。白山は富士山、立山と共に日本の三霊山と呼ばれ2702mで白山市の南側にそびえています。残念ながら、霞が酷くなかなか姿を現さず、手取川でやっと姿を見ることが出来ました。手取川は一級河川で白山が源流です。上杉謙信が織田軍を撃破した場所で有名です。追撃準備中に謙信が没しました。謙信が生きていたら歴史はどうなっていたでしょう?小松宿に入り、一向一揆勢により築かれたと言われる小松城を見物し、本日の旅を終えました。

  本日の歩きの行程と到着時間

  松任城(9:09)⇒聖興寺・千代尼塚(9:18)⇒一木・柏野地区北陸街道標識標識(10:01)⇒一木小跡標識(10:17)⇒一里山跡:柏野迄四町(10:29)

  ⇒一里山跡:水島迄一町(11:42)⇒水島信号(11:42)⇒手取川(12:58)⇒粟尾宿(13:21)⇒高堂遺跡公園(14:13)⇒左手に白山(14:43)

  ⇒小松橋(15:36)⇒小松宿(15:44)⇒芦城公園(15:52)⇒小松城:天守台跡(16:00)⇒JR小松駅前(16:33)


  松任城
   松任に着きました。古くは松任城があり、江戸時代当初には加賀藩の御旅屋(おたや)があり、後に加賀本陣が置かれるようになったようです。
   築城年代は定かでないが、鏑木氏によって築かれたと云われる。天正5年(1577年)上杉謙信が侵攻したが落城せずに和議となった。織田軍の柴田勝家
   により落城後織田軍の城として、城下町の整備とともに城郭化が進められ、加賀藩二代藩主の前田利長が3年間、丹羽長重が11年間在城したという。


  聖興寺・千代尼塚
   芭蕉の高弟、「各務支考」から賞された俳人で、著名だった加賀千代女の誕生の地である。生地に碑が、聖興寺には千代尼塚が建てられている。

  
●手取川
   手取川に到着し、左手を見ますと、本日の見どころの一つである冠雪の「白山」を、やっと見る事が出来ホットしました。
   手取川と言えば、「上杉・織田手取川の戦い」を思い起こさせます。

 
 < 現地説明パネルから>
   天正5年(1577)9月23日、上杉謙信と織田信長軍の戦いが、この手取川一帯で行われ、この地より遠望する事が出来る。上杉謙信は七尾城を攻略したが、
  織田信長軍総勢五万が手取川を越えたという情報を受け、9月18日馬を走らせ南下した。柴田勝家を総大将に前田利家、滝川数益らの優将が謙信を待ち受けて   いた。折しも七尾城陥落の悲報が伝わる織田軍は浮足立ち士気が低下したため、不利を悟った織田軍は9月23日夜影に紛れて退却を始めた。ところが、運悪く
  手取川の増水で逃げ場を失し、織田軍は千余人が討ち取られ、川に流された物、その数知らずといわれたほどの大打撃を受けて退散した。この時謙信は「信長と
  雌雄を決する覚悟で望んだが、案外弱く、この分なら天下を統一する事は簡単だ。」と言っている。

 
●小松城
  
小松城は柴田勝家に攻められ落城し、村上義明が城主として入城した。1598年(慶長3年)には丹羽長重が入城したが、長重は関ヶ原の戦いで西軍に与したこと   除封され、一帯は前田年長の所領となり前田家の持ち城となって年長義兄の前田長種が城代として入城した。その後、一国一城令により廃城となるが、1639年(寛  永16)に、金沢藩第3代藩主の前田年常の隠居城として再建され、石垣の建設、二の丸、三の丸等、大幅な改修が行われた。3層の天守があったが、戦闘を意識
  したものではなかったと言われている。


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