長崎街道紀行&アルバム

はじめに

 約10年前、もう少しで還暦を迎えるという時、初孫が誕生した。

「孫に伝えられるもの」を何か残したいという思いから、唐突ではあるが、還暦を迎える前に

「長崎街道を歩こう。その記録を残そう。」と決心した。

 母親の生家が長崎の「矢上宿」にあり、幼少の頃から、この小さな細い路が「小倉」つながっており、

「文明開化の架け橋になったということを」を年寄りから聞いたことをおぼろげに記憶していた。 

大きくなったら、「小倉」まで歩いていきたいと思っていた事も事実であった。

丁度3年前に新聞情報で得た書籍「長崎街道(河島悦子著)」を通販で入手していた。

詳細な地図情報が記載されており、これがあれば「一人歩きで行ける」と確信していた。

 平成13年のゴールデン・ウィークの前半は雨続きで、半ばあきらめていたが、4日に

晴天となり、「いざ決行だと」まずは、地元の黒崎宿から木屋瀬宿を目指してスタートした。


2001年5月4日:一日目
黒崎宿から木屋瀬宿



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2001年5月5日:二日目
木屋瀬宿から飯塚宿
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2001年14日:三日目
飯塚宿から内野宿


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2001年6月1日:四日目
内野宿から山家宿



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2001年9月22日:五日目
山家宿から轟木宿


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2001年9月23日:六日目
轟木宿から神埼宿

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2001年9月29日:七日目
神埼宿から佐賀宿(高橋)


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2001年10月27日:八日目
佐賀宿(高橋)から小田宿


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2001年11月2日:九日目
小田宿から塚崎(武雄)宿


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2001年11月24日:十日目
塚崎宿から嬉野宿


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2001年11月25日:十一日目
嬉野宿から松原宿


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2001年12月1日:十二日目
松原宿から永昌宿


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2001年12月1日:十三日目
永昌宿から矢上宿


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2011年12月15日:十四日目
矢上宿から長崎出島へ


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2001年12月23日:十五日目
黒崎宿から小倉「常盤橋」
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 待ちに待ったチャンスが到来した。平成13年5月4日、GWの初日より思わしくなかった天気が回復を見せ、快晴となった。出発点の「春日神社(田町)」ヘと向かう。この辺りは、昔「人馬継所」があったところと記されており、問屋街であったのでは?と思われる。
 熊手銀天街を真っ直ぐに通り抜け、しばらくするると「乱橋」にいたる。この橋を渡り左折する曲里の「長崎街道入口」が見えてきた。 入り口の正面に立つと、松林を背景にした石畳があり、いよいよはじまるといった思いで胸が高まる。又、約40年間親しんできた黒崎の町にこういう場所があったとはこれまで気づかなかった自分が恥ずかしい。石畳を上り詰めると、真っ直ぐな松並木が続いている。「曲里の松並木」この路を松陰、龍馬達が歩いたことを思うと自分も彼らになったつもりになり、足 が軽くなり自然に足早となる。進んでしばらくすると、「古代道表示の道標」にぶつかる。その後、約 20分で国道に突き当たる。これを横切り、しばらくすると幸神の「一里塚遺跡」に出会う。
 この道は200号線と並行して走り、現在は裏の路地裏風情となっているが旧道の面影も残っていた。
春日神社を出て約1時間で引野に到着。昼食兼休憩をとる。旧道と200号線の合流点で、小嶺側より歩行して来る旅人に出会う。リュックを担ぎ、手には自分と同じの本を持っているではないか?長崎を出て今日で6泊目であるという。終点、小倉:常盤橋までは約20kmですよと行って別れる。
 そうこうしている内に、小嶺台に到着。又、旧道に入る。約10分程で「銀杏屋敷(茶屋)」に至り、休憩をとる。この銀杏屋敷は約160年前に焼失し、再度建造されたとの説明を受けた。焼失時、銀杏も焼かれ株だけが残ったとの事であるが、現在の隆盛ぶりを見て、生物が持つ不思議な生命力を改めて感じさせられた。 
 いよいよ、昔、難所と言われた「石坂」へ向かう。現在は石の階段が整備されているため、とても昔 難所であったとは思われない。石坂の階段を降り木屋瀬へ向かう。馬場山で又もや、200号線と合流するも、再び旧道に入る。しばらく歩行していると、茶屋の原で「一里塚」に出会い、木屋瀬は間近かにあると思い、足が軽くなる。約20分程進むと、木屋瀬一丁目の標識が目に入った。途端「やった!」と声をあげた。それから、遠方にひなびた古い町並みが視野に入ってきた。
 いかにも古そうな商店「村岡店」の「兜展」が目に付き中に入ってみる。素晴らしい兜がズラリと展示されており、由緒ある古い町であることを再認識した。
村岡店を出て、約50メートルの本陣跡地に「郷土資料館&木屋瀬座」が新たに整備されており、いかにも由緒ある宿場町であった事を示している。見学は次回に回し、木屋瀬座の茶店で休憩をとる。
 その後、古い作りの「旧高崎家住宅」を見学する。いかにも古く、広々とした邸宅であり、昔の権力者の財力を見た感じであった。なお、木屋瀬が生んだ放送作家である「伊馬春部」の生家との説明も加えられていた。

 ともかく、第一日目の目標を達成、明日も頑張ろう。








 本日は2日目、足にやや張りがあるものの、勇気を出し、木屋瀬宿を11時(AM)に出発し、飯塚宿へ向かう。遠賀川の土手を耽々と歩く。車の往来が激しく、歩道が無いので、少々怖い。30分たって、若干旧街道の面影が残る筑鉄感田駅の方向に向かい左折する。
 その後、「日の出橋」を渡り、直方の市街地に入る。(12時着)この1時間の間に旧街道に関し、感動するものは皆無に等しかった。そば屋に立ち寄り、約25分の休憩をとる。
 12時25分「円徳寺」横の路地から飯塚宿に向かう。直方は昔城下町であったらしく、城址の下を旧街道が飯塚宿へ向けて走っている。約1時間旧道を歩行し続ける。JR勝野駅付近で、旧街道は消滅し、再び200号線と合流する。車の恐怖に脅えながら約30分歩行する。
 直方を出てから約1時間30分経過したが、この間茶店はなし。北小竹公民館の付近でやっと茶店を発見、ビールで喉をうるおし、再度歩行する。飯塚宿までの行程、後半分との
情報であったので

元気を取り戻す。しかしながら、相変わらず200号線とお友達だ。少々気がめいる。その後30分経過し、やっと小竹町の旧道にたどり着いた。
 小竹町には「長崎街道記念館」が整備されており、宝物を探し当てた様な感動を覚えた。又、「御小休処」、地蔵堂、 一里塚跡、「群境石(鞍手郡・嘉穂郡)」等数々の古い史跡があり街道筋の中でも重要な地点であった事が窺えた。
 その後、再び200号線と合流し、1時間程歩行、「許斐神社」よこから旧道に入る。水江交差点を跨ぎ、旧道
の面影が残る「片島」を通り、16時に「飯塚宿」の中心点「本町」に到着。ともかく、木屋瀬宿を11時に出て5時間後の16時に飯塚宿に到着。自分ながら良く頑張ったと思う。
 GWの間に筑前六宿(黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田)を通過する目標を立てたが、天候不順のため、原田まで到着出来ず、残念であるが近々の内に達成させる積りである。なんとも快い二日間であった。
 

 
 GW明けの休日、久しぶりの快晴日(休日)が到来した。9日ぶりの旅である。本日は「内野宿」まで行こうと決心する。JR飯塚駅に10:30に到着した。昨日は姪の結婚式があり、挨拶疲れや飲み疲れもあり、多少の不安があったが、前回、楽しみに残した飯塚宿の様子を速く見たいという思いから、やや足早に歩行する。約15分後、飯塚宿の入口である本町銀天街入口に到着。はやる気持ちで第一歩を踏み入れる。
 約50mの所で、「問屋場跡」を発見、次は何が出てくるか?胸が高鳴る。飯塚宿名入りの「提灯」が飾られている長い銀天街を更に進むと突き当たりに、昔の飯塚宿の状況を描いた「大パネル」が出現し、流石は、筑前六宿に数えられる「飯塚宿」と感激した。
 銀天街を通り抜け、しばらくすると「大神宮跡」と刻みこまれた石碑があった。これを最後に史跡らしき物がみいだせなくなった。市街地端の「徳前大橋」を通過中に、茶屋(中華料理:陽山)が目に入る。11時になっており、早めの昼食を取ることにした。
 11時30分に陽山出発、ポカポカとした陽気の中、穂波町の田園沿いの旧道を歩行、「貴船神社」、「穂波町役場の裏」を通り楽市を抜け「JR天道駅」に至る。

 そろそろ、一里塚がある場所なので、注意して歩行するも発見できなかった。大楠踏切を渡った途端に「一里塚と瀬戸の渡し」のパネルを発見し、路は間違っていないと安堵した。現在、川渡しはなく、直進したところ、路を間違え、秋月街道を甘木に向け歩行していた。
 桂川町役場前を過ぎて、どうも地図の状況と違うことに気づき、近くで畑仕事をされていた方に訊ねると、「全然違う方向ですよ」と言われ、軌道修正である。約1時間程のロスを生じた様だ。

 教わった「出雲交差点」に到着。ここから「内野宿」までは、約1里半の距離にあるようだ。やっと本道に戻ったせいかまた足が軽くなり、長尾交差点より右折し汐井川橋を渡り、筑穂町の旧市街を通り、内野を目指す。
 「馬出橋」を渡ったところで町並みが消えた。残り40分位の所まで来た。「愛宕神社」の側を通過し、「横山峠」を越えた所で内野の町並みが見えた。途端、それまでは、何ともなかった右ふくらはぎに張りが出てきて、やや痛い。「あと少しだ、無理はすまい」と右足をひきずりながら歩行する。14時55分に「JR内野駅」に到着
した。下りの時刻表を見ると、16時9分の桂川駅行きがある。約1時間内野宿見学の時間が確保された。
 そこより、3分の場所にある内野宿を見学。宿場の様子は、建て替えが進行中であるが、昔のたたずまいを
残している。「薩摩屋」「小倉屋」「肥前屋」等、木製の表札が各家の玄関の前に立てられている。一昔も二昔にも戻った思いがし、夢中でシャッターを押し続けた。又、木屋瀬宿、飯塚宿とはいささか異なった旅籠風景は
宿場町廻りを目的とした街道歩きに、一つの新鮮さを与えてくれた。
 長崎街道上り、下りの両面において、難所であった「冷水峠」麓の宿場であり旅人の大半はここの旅籠を
利用したと思うと感慨深いものであった。万歩計を見ると飯塚宿本町より内野宿まで23,500歩を指していた。
 次回は、いよいよ「冷水峠」越えで、「山家宿」を目指す。

 






 6月1日、約20日ぶりの「旅」である。出張あり, ゴルフの例会あり等で、旅の機会を持てなかった。もう少しで梅雨に入る事を考えると、「少しでも距離を稼ぎたかった」のが事実であったが、一方では「寂しい山道を1人で歩くのも不安であった」のが事実であったが、一方では寂しい山道を1人で歩くのも不安であった.
二男が「付き合うよ」と言ってくれた事が、今日の山越えを可能にしてくれた。前夜、「明日は茶店
が無いので、弁当を」と家内に頼み、「子供の頃の遠足に行くような」気分で、早々と床に就いた。
 起きてみると、素晴らしい快晴である。山も今日は霧も出ないであろうと確信し「JR折尾駅」へ向かう。折尾発8時45分の博多駅快速(飯塚経由)電車に乗車し目的地の「内野駅」に向かう。途中、「桂川駅」で原田行きに乗換、10時14分に「内野駅」に到着した。まず、飲み物を調達し、10時30分に出発、「冷水峠越」山家宿へと向かう。
 宿外れに「老松神社」が現れた。マニュアルどうりだ。そこから200号線と並行して走る旧道を右目に、段々田んぼを見つつ、峠へと向かう。「発峠」を越えた所から異様な光景を目にする。アスファルトとコンクリート構造物の残骸である、つい最近開発された「冷水バイパス」のため、要無くされた旧国道の一部であろう。側には空き飲料缶等が放置され、見苦しい。「ぶつぶつ」言いながら30分程歩行すると、冷水峠入口の「鳥居」とぶつかった。これで自然に戻れると いった感じで先程のいやな気分も忘れられそうな状態となった。
 鳥居を通過し、前進すると細い山道が続く、10分程経ち右手に民家があり、「首なし地蔵」はこちらの方向ですか?と尋ねると、「もう少しの所ですよ」と答えが返ってきた。それからは、急勾配の石畳となり、数回の小休止を取りながら登っていく。やがて、「首なし地蔵」の場所に到達し、夢中でシャッターを押した。
 それから、しばらく歩行すると、「冷水峠」であると思われる平らな山道に遭遇した。又、左側の谷に「穂波川(=遠賀川)の源流」であろうと思われる「せせらぎ」が見られる。これを横目に10分ほど歩くと、もう一つの「お地蔵さん」に出会う。この辺りに群境石があるはずで探してみたが、発見出来ず残念であった。
 これより、自然道が二つに分岐しており、どちらか迷ったが、左側の細く急勾配の路を選択し、杖で草を払いながら 15分ほど登っていくと平らな広い場所に到達した。「大根地神社」の筈である。右手を見ると、まさに堂〃とした鳥居が 上まで続いている。やっと難所を越えたかとホットした。鳥居の袂には「長崎街道の説明パネル」があった。昔の歩行者にとっては、整備されていないこの難所を越えるには大変だったろうなと改めて思いおこされた。時計を見ると11時30分である。二男と共に家内に感謝しつつ弁当を戴いた。
 12時ジャストに「山家宿」に向け再出発である。これまでの自然道の旧道は消滅し、アスファルトの200号線と重なっているようだ。狭い道路に大型トレラー、ダンプカーがひっきりなしに通過していく。その度に、路肩の溝側通過するのを待つこととなった。黒い排ガスを浴びながら誠に危険な歩行となった。道路事情に合わない大型トレラー、ダンプカーの製作とその運行について、制限役所を加えない甘い運用の国土交通省、関連役所に 腹が立った。見るものも無く、危険な歩行を約1時間続け、13時15分に「JR山家駅」にやっと到着した。
 丁度良い時間の列車がなく、14時30分発飯塚行きの「高速バス」で帰る事にして、二男と「やけ酒」ならぬ
「やけビール」で反省会を行った。今日の旅は、「半分の感動」と「半分の怒り」の時間をもつものであった。
 次回は、山家宿を起点に「原田宿」を経由し、佐賀県鳥栖市の「轟木宿」を目指します




 梅雨、暑かった夏も終わり、涼しくなった三連休の初日である9月22日を狙って約110日ぶりの旅である。素晴らしい快晴である。
 折尾発8時45分、博多行き快速(飯塚経由)に乗車し、(前回の終点であった)「JR山家駅」へ向かう。前回と同様、 桂川駅で筑豊線に乗り換え、10時30分に到着した。
 前回、残した山家宿の史跡めぐりを開始。駅より5分程歩行すると、「群屋跡地」の標識があり、中には入ってみる。建造物は、やや朽ち果てた状況に見えるが、昔のお役所らしく堂々とした、たたずまいである。そこから1分程度の所に「本陣跡地」が見つかった。翌日は、難所「冷水越え」である事を考えれば、ここに宿拍された殿さま達は早く就寝 されたであろうか?とくだらない想像をしてしまった。
 本陣跡地を目の前に左折し、右サイドに「恵比須石神」「敬士義塾跡」等の史跡を確認しつつ、「原田宿」へ向かう。25分程歩行すると、国道200号線とぶつかり、又、排気ガスとのお付き合いかと少々木が滅入ってしまった。20分程度で、「宝満川」に架かる「下見橋」に到着。あまりにも美しい川に感動し、下流に狙いをつけシャッターを押す。その後、筑紫野バイパスとぶつかるが、並行している旧道に入り、しばらくすると、「筑紫神社」の裏側に到着。表側に廻る。
 「筑紫神社」は筑紫大明神といわれるように由緒ある大神社のようである。なお、石段から下を見下ろすと
「原田宿」の町並みが直線上に走っている姿が見えた。燈篭歩道等人工的に改装されているが、昔の大きな
宿場町の面影は残されているようだ。宿場案内を見ると、昔、「島原の乱」の折り、鎮圧に出向いてきた「松平
」の殿様が、宿拍されたところと記載されていた。
 「原田宿」を出、「田代宿」を目指す。旧道は近年の開発のため消滅しており、少々迷い気味となったが、3号線と並行する旧道に合流した。「三国坂(筑前、筑後、肥前の境界点)」を目指し約40分耽々と歩行した。
 温泉ランドのある「アクオフォーレ」前に、「国境石」をみつけた。「この路より、筑前領である」と彫り込んである。又、「アクオフォーレ」の左側には「古往還」呼ばれる古道が南へ走っている。
 これより3号線に再び戻り、「けやき台」の前を通り、基山へ向かう。30分程後、佐賀県基山の旧道に入る。
この旧道には「長崎街道の標識」が沢山設置されており、まさに街道を旅しているという気になる。

 史跡は見出せないまま耽々と歩行していると、鳥栖インターチャンジのガード下が見えてきた。ああ、もう「田代宿」だと元気がみなぎる。14時15分にガード下をくぐり、田代宿に到着。古い町並みである。「高札場」「本陣跡」等を横目に見て歩行していると、なにやらサロンパスの匂いがしてくる。横を見れば、それもそのはず、「久光 製薬」の美しい工場が真横にあるではないか?古いものと新しいものが混在しているも、なんとも見事に調和している。さらに15分程歩くと、見事な「追分石」に遭遇した。「くるめ追分石」と称され、肥前路と筑後路の分岐点を表すらしい。又、しばらくすると、「轟木宿への標識」が目に入った。もう少しで本日の目的地に到達
すると思うとさらに元気が漲った。15時15分に「轟木宿」の入り口である鳥栖市本町に到着した。
 久しぶりの「旅」に満足し、鳥栖発15時23分の特急「有明」で折尾に向かう。これまでの帰路は、筑豊回りであり、随分時間を要したが、一時間で到着するので有り難い。明日は「神埼宿」を目指そうと、車中で買った缶ビールをいっきに飲み干した。



 昨日に引き続き今日も見事な快晴である。関東地区に居座った寒気も東へ移動すると言うことで暑くなりそうだ。9時2分折尾駅発特急「ソニック」で鳥栖駅を目指す。博多駅で特急「有明」に乗り継ぎ、10時10分に鳥栖駅に到着した。
 直ぐに、起点の「轟木宿(本町)」より、神埼宿を目指し歩きだす。轟木宿の町並みは、ひっそりとして古い建物が多い。ここは本来鍋島藩の領地であるものの、ある理由で一部を対馬藩が領有したと本に書かれている。
そのせいか路地等が複雑なようである。
 路を間違ったかと思ったが、順路の目印である「朝日山公園」下の記念碑に到達し、安堵した。この辺りは緑豊かな所で、折からの日差しでまぶしい中を峠へ向かい歩行していくと、左右に素晴らしいグリーンが目に入ってきた。「ブリジストン・カントリークラブ」の標識がなされている。グリーンの中に木立を配し、如何にも戦略的なコースであるようだ。何時かチャレンジしようと誓い、峠を下り34号線を横切り旧道に入った途端、「六地蔵」に出会った。そこからは、旧道の風情を残した情景がしばらくの間続き、私のの思いをかなえてくれた。30分程経ち、再び34号線に合流し、「競馬場前」までつまらない歩行が続く。競馬場前から旧道にいるも20分程度で又、34号線とお友達である。
 「北茂安町白石」でやっと「中原宿」に到着した。12時となっていたので、休憩(昼食)をとることにした。二日間の連続歩行であったので、アミノサン補給をと思い、直ぐ側にあったステーキハウスで「サーロインステーキ」
を注文し、空腹を満たした。休憩中に神埼に居る従弟に電話してみたが、出かけているということで、今日は会えそうにもない。前もっての連絡が必要とあらためて悟った。
 「中原宿」は、小規模であるが、各々の屋敷の規模は大きいように見える。燦々とした陽光に照らされた屋敷内の緑が眩しいように映えている。町外れに石門付の大きな屋敷が目についた。
 背振山塊を右手に見て、歩行していくと中原宿外れで「地蔵堂(43番札所)」に出会った。これより15分程で
又34号線と合流し、「上峰町切り通し」を通り久留米分岐点まで約30分耽々と歩行する。この間、史跡らしき
ものは全く見出せなかった。久留米分岐より右折し、「目達原商店街」に入り、直進すると「祇園社」にぶつかる。この周りの建物は相当に古いもながあり、歴史の古さを感じた。ここで残りの行程を調べた。直進すると、34号線と出会うが、横切ると旧道に入り、約1時間半で神埼宿に着くようである。ともかもう直ぐ神埼宿に到着する
という思いで足早になる。次の史跡は「背振追分石」だ。見過ごすまいという思いにかられる。「三田川小学校」
での運動会を横目に足早に歩行する。ほぼ目的地と思われる所に来たが、「追分石」を見つけることは出来なかった。残念であった。

 そうこうしているうちに、「田手宿」に着いた。ここには古代の神社に近い姿の「大神宮」があるとの事である。古い民家の前に堂々とした威容を見せている。民家の姿とは桁違いである。由緒ある神社らしい。そこから10分後に「ひのはしら一里塚」に到着。この一里塚は、長崎街道で現存する唯一のものである。とパネルに記されていた。それから10分後に神埼「佐賀銀行」前に到着した。15時10分であった。
 昨日、今日と3連休を利用し、快晴に恵まれ旅したが、長崎までの行程1/2を達成したようだ。年内の目標達成も夢では無くなった。明日は紀行を書こうと早めに就寝した。




 


9月29日(土)快晴である。10月はゴルフのベストシーズンであるため、土曜日は殆ど詰まっている状況のため、9月の間に相当の距離を稼がないと、年内に長崎まで到達しようという目標を達成できない危険性があり、快晴日を狙っていた。

 JR特急「ソニック&かもめ}、タクシーと乗り継ぎ前回の到達点、神埼宿:「佐賀銀行」前に到着。直ちに佐賀宿:高橋へ向かい、出発した。直ぐに、順路の目標となる「櫛田神宮」に到着。この前を左折し、神埼橋を渡り又、左折する。264号線を目指し「城原川の土手」を耽々と一直線に南下する。土手の対岸には彼岸花が満開に咲き誇り、時折、雲雀の囀りが聞こえてくる。のどかな旅である。「新宿」でこの土手と別れ、今度は農道を耽々と歩く。神埼宿を出て1時間後、茶店(食事処:更科)に着き、昼食兼休憩をとった。
 「境原宿」へ向かって15分後、「六地蔵」を見つけた。この六地蔵は、佐賀の乱の戦死者の供養のために村民が建てたものらしい。供養者の冥福を祈り、ここを去った。その後、30分程で「境原宿」に到着。近代化の波を強く受けたせいか宿場町の面影は見出せなかった。やや残念であったが、気を取り直し、佐賀宿の入口となる「構口」を目指し前進する。30分ほど経って「群境石」を見つけた。何と、個人住宅の境界線そのものに立っている。「ここより、東は神埼郡、西は佐嘉群」と記されているいるようだ。30分ほど経ち、前方に「構口」が見えてきた。14時に佐賀宿に到着した。
 この町の街道は昔風に整備されいると聞いているので、楽しみが優先し足が軽くなる。足を踏み入れた途端、そのとおりと思われた。幅一間半の旧道が前方を走っており、「構口橋」「思案橋」「晒橋」等古い地名等が残っている。呉服元町の繁華街の中に「こくらみち」と彫られた「追分石」を見つけた。白山町に入り旧道を歩行する。旧道の側溝の蓋には、絵入りの道しるべが表示されているため、間違いそうにない。また、白山町の家並みは直線上でなくギザギザ状に配置されている。本によると、防衛上の見地からこういう配列をとったと記されていた。
 竜造寺八幡宮前、並びに伊勢神社前を通過し、六座町に入る。この町の西側の端に「日新小学校」があり、その校庭の隅に我国初の「反射炉」が保存されている。元々、佐賀藩は黒田藩と交互に長崎港の警護を司った藩であり、こうした事情から反射炉を利用して大砲製作等にあたったのではと勝手に想像した。反射炉と別れ10分ほどした場所で「八戸の地蔵」に出会った。何とも美しい地蔵群である。それから5分後に目的地の「高橋」に到着した。

 ここ高橋は、佐賀宿への西側の入り口であり、先程、通過した「構口」が東側の出口となる。この間の通過所要時間は1時間30分であった。佐賀宿が如何に大きな宿場町であったかを物語っているようだ。シーボルトの記録によると長さ2里半、幅1里と記されている。又、高橋は昔風の木造作りで近年再構築されたようである。姿は「小倉の常盤橋」そっくりである。どちらが真似をしたのであろうか?と馬鹿なことを考えた。
 佐賀発、16時45分の特急「かもめ30号」で帰路についた。佐賀の町は歴史も古く遺構も多い。今回の旅は城下町 北側旧道を通り抜けただけである。いつの日かじっくり歴史探訪をしようと思いを馳せ、車中での缶ビールを楽しんだ。












 10月27日(土)快晴、前の旅が9月29日であったので約1ケ月振りの旅である。本日の出発点の「高橋」を12時丁度に発ち、小田宿を目指す。今日は、牛津宿までは旧道と207号線が重なっているため、車とお友達となりそうだ。
 10分程歩くと、右手に「別れの松」があった。元、佐賀藩の刑場に向かう罪人を見送った場所らしい。ここから10分 程の西側の場所にあるらしい。「森林公園」前を通過し、刑場跡を探したが見つけることが出来なかった。昔、江戸の将軍拝謁のためこの側を通過した「ケンペル」の記録には「一人の男が、十字架にかけられていた」と記されていたらしい。
 その後、「嘉瀬川」を渡りながら、廻りを見渡すと川原には無数のテントが設置され、上空を数十個の「熱気球」が浮かんでいるのが確認された。有名な「バルーン・フェスタ」の開催がまじかに迫っており、その練習のようである。
 「嘉瀬川」を渡りきると、「久保田宿」となるらしい。10分程後に「小城」方面との分岐を示す「追分石」を見つけ、標識通りに進む。左側に「香椎神社」が見え、博多の香椎神社と何らかの関係があるのかな?と思いつつ通過する。
 そこより、207号線を20分程進むと、進行方向の右手に「祇園社」があった。又、その横には「久保田宿」との標識 があった。左手に茶店(大福ラーメン)を見つけ、昼食兼休憩をとった。 この茶店を出て10分後に「牛
津宿」に到着。この牛津は、牛津川を利用した、有明海沿岸の中でも有数の「商い・市場」であったらしく、「駅前のパネル」がその事を示しているようだ。この牛津より、旧道が復活し昔風にみえる町並みが現れた。この
ひっそりとした町並みを通過し、牛津川にかかる「六間橋」「砥川橋」を渡り「小田宿」を目指す。10分程後、34号線と合流し、車とお友達になり、騒音と排気ガスを浴び40分ほど歩くことになった。
 「砥川小学校」前で、旧道に入りのんびりと静かな場所を歩けるようになった。15分程静かな時間を過ごすも
のの又、34号線と合流し、少々きが滅入る。地図を見るとこの付近に「カンカン石」があると記されている。34号線進行方向右手の丘にその場所を見つけた。そこに立っている説明パネルによると、この場所の岩石には、
磁鉄鉱を含んでおり、叩くと「カンカンと鳴る」と書かれています。足元の小石を拾い上げ、そこら中を叩いて回る。その度に「カーンカーン」と鳴るではないか。なるほどそれで「カンカン石」かと感心した。その後、「小田宿」
の入口にあたる「JR肥前山口駅」に到着。時計を見ると、15時を示している。曇天となってきたので無理せずに帰ろうと15時4分発の鳥栖駅行きに駆け込み、佐賀で「特急ミドリ」に乗り継ぎ帰路に着いた。久しぶりに落ち着いた時間を過ごせた事に喜びを感じた。















 11月2日(土)折尾発8時30分のソニック6号に乗車、博多でかもめ11号に乗り換え。「肥前山口駅」に9時46分に到着。落花生畑に変身した休耕田を横目に塚崎宿(=武雄)を目指す。
 10時20分に「小田宿」に着く。昔の宿場町の面影を残す町並みである。「小田宿広場」「追分石跡」等良く整備されている。「馬頭観音」を右斜め上に仰ぎ、大町へ向かう。「杵島商業高校」下を10時40分に通過、その後約20分で大町の市街地に入る。
 途端に「大町カゴカキフェスタ」の案内パネルが目にとまった。一週間後の11月9.10日に行事があるらしい。駕籠を担ぎながらの競争であるらしい。 街道筋のイベントとしては、誠に相応しいものではないか。今回の歩きを一週間遅らせばと思ったが後の祭りであった。JR佐世保線に沿って耽々と歩く。この周辺には「カササギ」が生息しているとのことであったので、注意しながら歩行したが、見つけることは出来なかった。「福母地蔵」の前を通過し11時50分に「焼米橋」のバス停前に到着。茶屋(食堂かみや)を見つけたので昼食休憩をとった。
 12時30分に再出発。「焼米橋」を通過して直ぐ右側に童話の世界にで出来そうな「河童神社」を見つけた。
ここ焼米地区はもう一つの長崎街道である「塩田道」との分岐点でもある。塩田道との追分を通過し、「木ノ元街道」経由で塚崎宿へ向かう。それから10分後、昔の殿様の宿拍場所であった「北方本陣跡」に出会った。
「北方宿」である。
 しばらくして、塚崎方面と伊万里方面行きとの分岐点である「追分石」を見つけた。これを直進すると伊万里方面へ、 左折すると高橋、塚崎方面への路となる。見過ごしそうな場所にあった。長崎自動車道の高架道を
くぐり耽々と歩く。約25分後に高橋に着いた。左折し、左に「火除地蔵」、右に「天満宮」を見て「高橋宿」に向かう。この「高橋」は「牛津」と同様に、有明海をベースにして、船を介した交易場のひとつであり、相当栄えていたようである。「享保橋」から左折し、直進すると、いよいよ「塚崎宿」となる。
左側遠方に形に特徴がある「御船山」が見える。「えんま坂」を越え耽々と歩くと右側に「諏訪神社」があった。
塚崎宿の入口である。宿の中に入ると「鍵形道路」の説明パネルがあった。町防衛の見地からの作りであるとの説明がなされていた。(木屋瀬宿、佐賀宿にも同様な形が残っていた)本陣は立派に復元整備されている。又、町のメイン通りには長崎街道各宿場町の絵が、宿場毎に「化粧タイル」ではめ込まれている。山家、原田、轟木、中原、・・ ・・・・・・・・・大村、諌早、矢上、日見、長崎と下りの順に並んでいる。姿はカラフルで綺麗なものであった。
 その後、武雄温泉の高温温泉で疲れを癒し、16時50分の「みどり22号」で帰路についた。
次回は、「塚崎宿」から「嬉野宿」を目指す事となるが、日帰りは不可能であるので、一泊覚悟で「大村宿」まで行かざるを得ないな?と思いつつ車中で眠り込んでしまった。













 11月24日(土)、快晴、20日振りのの旅である。「JR武雄温泉駅」に11時30分に到着。塚崎宿の本陣跡より「牛花山善念寺」横の旧道を通り、「嬉野宿」を目指す。「山王神社」を右目に通過すると、11月24日というのに、汗が噴き出てきた。シャツ1枚を脱ぎ又歩き出す。細い旧道を進むと35号線にぶつかるが、そのまま横切り、 南西の山側に方向をとる。武雄の特徴がある「御船山」がずいぶん遠くに見えるようになった。
 そのまま直進すると、如何にも古そうな「石橋」に出会った。この橋を渡ると、急勾配の坂道となり、またもや
汗が噴き出きた。この坂道を2,3度小休止をとりながらゆっくりと登って行った。登りつめると、そこは武雄地区
の水瓶となっている「淵の尾水源地」である。昔はここから渡し船に乗り、淵の尾峠の麓まで行くのが正式なルートであったようが、現在は船渡しがないので、そのまま歩行した。左側に暗い「自然道」が待っていた。
 少々、薄気味悪く躊躇したが、勇気を出して「自然道」ルートでこの峠を越えようと決心し、中へ入って行った。
暗い自然林の中に細い急勾配の山道が峠へと向かっている。「冷水峠」よりも原始的な自然道である。小さな音にびくつきながら登ること約20分、やっと上方に明かりが見えてきた。頂上につくも、下りは雑草が密生し、
出口が見つからない。諦めて15分程で元の舗装道に戻り、「川登」を目指す。40分程時間をロスしたので下り坂を足早に歩く。20分程で34号線にぶつかり、しばらくはこの道路を歩く。「東川登小学校前」の信号より右折し旧道に戻りホットする。しかし10分程で又34号線とお友達となり、車と共に耽々と歩く。
 しばらくすると、右側に素晴らしい銀杏のある「貴船神社」が見えてきた。時間を見ると、13時40分となっていた。神社前に「そば屋」があり、昼食をとることにした。14時15分に再出発、地図によると、30分位は34号線とお友達のようだ。西九州自動車道、しばらくおいて長崎自動車道のガード下をくぐって、5分位の所に「小田
志追分石」を発見、この後直ぐに「観光秘宝館」が右手に見えてきた。秘宝館の裏手に旧道があるはずなのに
なかなか見つからない。民家の裏側に幅1mにも満たない旧道を見つけホットする。この道を進んでいくと、最初は、右手に「田んぼ」、左手は造成地であったが、急に細い「山道」となり、少々薄気味悪い。そのうち、杉林の山道となり、暗くなり、心細くなってきた。20分程経ち、やっと峠を越えると大きな舗装道路となり、しばらくすると、「塩田道」との追分(分岐点)に到達した。ここから、「下宿」を通り抜ければ「嬉野宿」に達すると思うと、
元気が戻った。15分程で、34号線を横切り、16時に「嬉野宿」の「東構口」に到着した。明日も天気が良いとの情報を得たので、今日は「嬉野宿」に宿拍することにした。そのまま旅籠に行くのも時間がもったいない。
 近くに「肥前夢街道」があるので、そこを見学する事にした。「わたや別館」の前の道路を登っていくと、昔の
砦風の入口についた。2000円の入場料を支払い、中を見学する。「子供だまし」みたいな「展示物」も多いが
「代官屋敷」「本陣」などの構造物で先人の生活様式の再確認が出来た。又、「柿右衛門の作品」も展示されていた。辺りがくらくなってきたので「肥前夢街道」を出て、「旅籠」を探す。3連休であったため、ホテルは満杯
となっているようだ。3,4軒断られ、やっと町の中心街で「旅館(通天閣)」を見つけた。泊まり・朝食付きで4200円という。又、夕食は「手頃で美味しい店」を紹介しましょうと、そのままその店に連れて行く。確かに、味も良く料金も手頃であった。食事の後、宿場町の見学をするが、ここ嬉野も武雄と同様、街をあげて宿場町保存の
整備をしているようだ。「旅籠」に戻り、岩風呂にゆっくりつかり、明日のために早々と就寝した。




 11月25日(日):快晴、「大村宿」を目指し、「嬉野宿」を8時に出発。朝霧が漂う温泉街の中心部を歩く。10分程歩くと、「湯野田」の街道入口に着く。緩やかな坂道の旧道が県境(佐賀・長崎)まで伸びているようだ。このひっそりとした旧道を耽々と歩く。30分程歩くと、右手に「丹生神社」があり、この遠景をカメラに収めた。
 その後、しばらくすると「平野川の渡し」が見えてきた。昔は小船で川(塩田川の上流)を渡ったようであるが、現在は橋があり、これを歩いて渡る。途端、急坂となる。いよいよ「俵坂」越えとなった。一旦、34号線と出会い、これを横切ると、手摺の付いた階段が待っている。この階段を登りきると勾配のきつい旧道が待っていた。2・3度小休止をとり登っていった。下り坂となり、再び34号線と出会う。これを横断して、しばらくして昔の「番所跡地」に着く。時計をみると9時であった。この番所跡地には、「国境石」があり(これより北は佐嘉領なり)と、記されているようだ。 この番所跡地より、すぐ上方を34号線が走っている。これを歩いて10分後に「県境(俵坂)」に到着した。
 この左手の竹林側には、もう一つの「国境石」を見つけた。(これより南は大村領なり)とこれも
記されているようだ。
もう1枚、大村領の国境石をクローズ・アップでとろうとしたが、バッテリーがあがってしまいこれを最後に今日の写真撮影は不可能となった。
 34号線と別れ、「彼杵宿」までの旧道を下って行く。見事な紅葉である。撮影できないのが残念であった。 彼杵川に沿行く。途中、土地の人と出会う。
昨日から、旧道での始めての出会いだ。

 「彼杵まで」どれくらいかかるでしょうか?」と尋ねると「一時間もかからないでしょう」との返事が戻ってきた。もうあと少しだと思うと、足が軽くなる。
「大楠跡「鞘原大明神」の側を通り、「長崎自動車道」のガード下をくぐると、「彼杵宿」の町並が見えてきた。10:40分に到着。嬉野より2時間40分を費やした。
 「下川橋」の橋の欄干で小休止し、10時55分に大村湾を右横目に、次の宿である「松原宿」を目指す。 10分程歩くと、34号線にぶつかり、しばらく歩くと、右側に茶店(ドライブイン)を発見、食事をとることにした。「うなぎ定食」と「あらかぶ定食」がメインのようである。「うなぎ定食」をとることにした。波が静かなキラキラ光る大村湾に見とれ、休憩をとりすぎ、11:50に再スタートした。 
 その後しばらくは、34号線とお友達であったが、「千綿漁港」より、又、旧道に戻った。やはり、旧道が落ち着き、歩きやすい。 地図をみると、これからの約一時間は「34号線」と「長崎自動車道」との間の丘陵地を走っている旧道を歩くことになりそうだ。確かに、アップ・ダウンのきつい道であった。特に、「千綿中学校」横の坂道は勾配がきつく、折からの日差しで、あごをだしそうであった。小休止を何度もとりながら歩行した。 13:30に「JR大村線」の「餅の浜踏切」を渡り、「松原魚港」の近くで平坦な旧道となった。魚港からそよいでくるやさしい風を受けて「松原宿」を目指す。 13:50にやっと「JR松原駅」横に到着した。
 嬉野を出てから、約6時間の旅であった。今日の目的地は「大村宿」であったが、昨日からの峠越えの連続で、これ以上は足がもちそうにない。 無理をせず、14:38発の普通列車に乗り、[JR諫早駅]経由で、「特急かもめ」で、帰路についた。 この2日間、くたびれたものの、好天に恵まれ、静かな街道の空気を満喫できた。次回は、「松原宿」より、生まれ故郷の「永昌宿(諌早)」を目的地としようと思いつつ、「博多駅」まで、ぐっすり眠りこんだ。

 

 

 12月1日(土)早朝、真っ暗い中、折尾駅発5時44分発の「ドリームにちりん」「かもめ7号」と乗り継ぎ、諫早着8時16分、松原駅には9時15分頃に到着。 旧道を永昌宿を目指し歩き始める今日は難所「鈴田峠」越えとなる。日の明るいうちに峠を越えねばと気が焦る。
 松原駅を出て5分位の所に「鍛冶屋」があった。松原は鉄の槌で名高く武器・小刀その他の鉄製品を産出するところであったらしいとシーボルトも語っている。
 
34号線に沿っている旧道を左側に「野岳」、右側に「発電所」見て、耽々と歩く。20分経った頃、「牟田家前の標識に出合った「右に曲がれ」との指示である。右折し、34号線を横切りしばらく旧道を歩く。5分後に旧道が切れ、34号線と一緒になり、車との友達関係が約30分間ほど続く。「八坂神社」前に1030分に到着。これより、又旧道に戻り25分ほど歩行後
「追分石に出合った。更に進むと「水主町口石垣跡」が右側にあり、大村「本町」はもう真近にある事を悟った。
 5分ほどで「本町」入口のアーケードに到着、右側には「脇本陣跡を見つけた。松原駅前より2時間15分後の1130に休憩地点の「本町」に到着した。アーケード内は、昔宿場町であったことを示す灯篭等良く整備されていた。先を急ぐ気持ちが逸り食事休憩もそこそこに、12時に大村本町を後にした。20分後、「岩松」に抜ける旧道の分岐点の所に長崎街道の「説明板」を発見。これを横目に鈴田峠ヘと急ぐ。右手には近代的な「国立中央病院」の建物が見える。左手にある「野田神社」前を通過する。地図を見ると間じかに「自然道」とぶつかる筈である。「老人ホーム」左側に「自然道」が見つかった。1メートルにも満たない細い道である。左手には「みかん畑」である。100メートル位歩いて、出口に出た。諫早側からはこれが入口である。旧道をそのまま直進し、長崎自動車道の高架道の下をくぐり抜けると、34号線とぶつかった。
 これを横切り、坂を登って行くと、右手に鈴田峠の入口である「大神宮」があった。時計を見ると1330であった。急勾配でアゴがあがりそうになった。高く登って来たこともあり、多良岳も真横に見える。最後の急勾配が現れた。峠最後の登りである。力をふり絞って登った。登り切ると、薄暗く、なんだか薄気味悪い場所である。それでも我慢して「駕籠立場跡」を通過し、国境石(弁慶の足形石)」の場所まで来た。やっと明かりを見ることが出来、ホットした。時計を見ると、1410を指していた。これからは下りとなり、「破籠井経由」で永晶まで30分で行けると思った途端、ハプニングが生じた。
 何と、ドーベルマン犬3匹がこちらを見ているではないか。更にピーと笛がし、飼い主が犬を呼び寄せ、「軽トラの檻」に収納した。自分が通過した後、檻を放たれると?の思いがあり、前を通過することは出来なかった。結局、苦労してきた道を引き返し、横道を30分くらいかけて、34号線に戻り、34号線に沿って遠回りで「永昌宿」を目指すことになった。(なんとも情けなかった)ハイカーも通る所でドーベルマン犬を離すとは、誠に非常識な飼い主である怒り心頭であったので、取敢えず、軽トラの「登録番号」を地図の上にメモした。「永昌宿」に着いたのは、計画より1時間遅れの1610分であった。万歩計は40,400を指していた。これまでの最高の距離と最高の歩行時間であった。諫早駅前の食堂でヤケ酒?をあおり1644分発の「かもめ36号」で帰路についた

 


 128日(土)北九州は小雨模様であったので、今日の歩きは無理かな?と思って躊躇したが、年内「長崎到達」の目標達成のために強行する事にした。折尾発900の「ソニック8号」に乗車し、博多で「かもめ13号」と乗り継ぎ本日の出発地点の諫早駅に1141分に到着した。駅前に降り立ち、西の空を見ると、少し青空が覗いているので、傘なしで歩けそうだと思うと、勇気が漲って来た。万歩計をリセットしようとベルトを見たが、慌てて家を出たため、万歩計を忘れていることに気づいた。駅前の旧道を歩き、しばらくして右に曲がり、34号線を横切り、「御館山」の麓を左側に廻りこんだ所に[小船越」ヘ抜ける「街道入口」を見つけた。それから20分ほど、道幅の狭い旧道を「御館山」をぐるりと回るように歩行する。
 長崎本線の架橋、34号線の歩道橋を渡り「小船越町」ヘ入る。さらに、「県立農業大学」の南側を旧道が走っており、10分ほど進むと「島原往還」との分岐に出合った。歩行ルートに間違いない事を確信した。それからすぐに道祖元(さやごぜん)が見つかった。そばの東大川にかかる「佐代姫橋」を渡り「貝津町」に入る。ここで、道を間違い、「創生館高校」の所まで来てしまった。  
 喫茶店で昼食を取り、再出発したのが、14時であった。(約40分のロス)「諫早ソニー工場」を左手に見て、「若葉町」に入る。それから、自然道の「赤松坂」を越え、「久山」の「旧茶屋跡」に出る。かなりの勾配がある坂を10分程登り少し平坦な道になったので「やれ、やれ」と思ったところ、「井樋ノ尾峠」ヘの標識があり、又、坂登りかと唖然とする。
 耽々と登って行くと標高150メートルの所に「駕籠立場跡」があった。時計を見ると、既に15時を指していた。まだ坂道は続いている。暗い「椎の木坂」を登りつめた所で、遠景を
眺望できる場所が見つかった。長崎国際(喜々津CC)が随分下に見える。 プレーしている姿が芥子粒のように見える。
 やっと下り坂になり、下っていくと「領境石」に出合った。「これより東は佐嘉領なり」と書いてあるらしい。そこから、20分ほど下って行くと、「藤棚茶屋跡」に着いた。本には「永昌」から3里の所にあると書いてある。(この茶屋の主は、丸山の遊女、半太夫であったそうである)又傍に、有名な「古賀人形」の工房もあり、昔、旅人たちを楽しませた「茶屋」のようであった。
 矢上宿までの距離は後、一里弱である。日も暮れかかったので、足早に歩く。キリシタンのお墓がある「福瑞寺」下の旧道を耽々と歩く。「小船越町」以来、ずっと
旧道が残っている。このままの形で残して欲しいものだ。このあたりは、昔、村人全員がリシタンで5つもの天主堂があったという。  幕府の禁教令により、激しい弾圧が加えられ「福瑞寺」が建立され、すべての者が、門徒にならなければならなかったという。又、「福瑞寺」の住職が京都の伏見人形に学び、近くの瀬古焼きの手法を使ってこの地に広めたいというのが先述の「古賀人形」の由来であるそうだ。 
 又、「領境石」に出合った。その隣に「役の行者神社」があり、時計をみると1615分を指していた。それから、20分ほどで、昭和577月に氾濫で大水害を起こした「八郎川」の橋を渡り、「教宗寺」に着いた。
(矢上宿の入り口にある「教宗寺」は、慶
長12年開山の古いお寺で、江戸参府のために早朝、長崎をたったシーボルト一行が昼食をとった寺で有名だそうである)

 いよいよ、長崎への行程も後1日を残すのみとなった。帰りの電車では、満足感で心地良く眠ることが出来た。

 

 

1215日(土)、1030分に矢上宿に到着。(旧道を)歩行開始した。直ぐに、右側に県の天然記念物に指定されてい「大楠」を見つけた。そこから数分ほど歩行したところに昔、頭役以下の役人を置き、長崎に向かう武士、留学生、商人等旅人の往来を厳重に監視した「番所跡」があった。
番所橋」を渡り、これより一里半先にある日見宿へ向かう。「濱大王(神社)」の前を通過し、「切り通し」の坂を登りつめた所に、「国境石」を見つけた。現在は消滅している「腹切坂」を下り、一旦34号線を横切り、更に坂を下る。石橋を渡った所に、駕籠かき、人足、旅人が休憩をとる「継ぎ場跡」があった。直ぐに、「日見宿」の石碑も見つかった。これより登り坂一里、下り坂一里で「蛍茶屋」に到達する。難所の「日見峠」越えである。

 勾配のきつい坂が続く。1215日というのにすごい汗が吹き出る。セーターを脱ぎポロシャツ姿になる。登り初めて40分位で34号線と交差する「芒塚」に着く。車であればここが峠となり、「日見トンネル」を通り、「蛍茶屋」へと下って行ける。
 しかし、旧道はこのトンネルの上の「自然道」である。旧道の入り口に「街道標識パネル」を見つけた。ここから又厳しい自然道の登り坂となった。耽々と登る、頂上に「(公儀)の関所跡」があった。
等高線から見ると、約
250メートル位の高さにあると思われた。又、この峠越えは婦女子にとっては大変なものであったろうと思われた。いよいよ、これから下りになると思うと元気が出てきた。一気に峠を下ろうと足早になった。

 右手に変わった名前の「地震神社」を見て下って行く。しばらくすると、左手に「茶屋跡」の標識があり、これから急勾配の石段の下りとなった。「日見峠路の標識」にも出会い間違いなく旧道を通過していることが確認できた。     
 それから「新茶屋跡」を左手に見て更に下って行くと、
34号線とぶつかった。これを横切り旧道を更に下ると、右手に長崎の水瓶である「本河内貯水場」があった。更に下り、矢上宿を出て約2時間半後1250「蛍茶屋」に到着した。
 「蛍茶屋」の横にある「一の瀬橋」を渡ると長崎市街である。「古橋」を渡り「シーボルト通り」を進む。右手山側にシーボルトが開いた蘭学の「鳴滝塾」がある筈だが先を急ぐので立ち寄らなかった。
「シーボルト通り」を通過中に、おいしそうな「ちゃんぽん屋」の看板を見つけたので、立寄ることにし遅い昼食をとった。さすが本場ものの「ちゃんぽん」である。久しぶりの「おいしさ」を味わった。
20分程度で「長崎奉行所跡地」に着く予定なので30分ほどの休憩をとった。
 「玉屋」デパートの裏通りを抜けると、右側に「諏訪神社」の鳥居と石段が見えてきた。諏訪神社の前を通過し、10分ほど直進し右手に曲がった所に「県立美術館」があるその右横に、「長崎奉行所、立山役所跡」の石碑を見つけることが出来た。
 直ぐ近くには「英語伝習所跡」「長崎会所跡」も見られた。英語伝習所は、ペリー来航後、それまでの蘭語から英語の必要性が生じ、英人フレッチェル等を教授とする伝習所が設立されたとある。又、長崎会所は、幕府における海外貿易の事務を統括する役所であったそうだ。主要な役所が奉行所廻りに配置されていたようだ。
 「桜町」を通り、「長崎奉行所西役所」があった県庁を目指す。途中、朱印船貿易商、後に長崎代官となった「末次平蔵宅跡」「唐通事会所跡」を見つけた。唐通事会所は、中国貿易で中国語の通訳をする役人の事務所であったそうだ。
 
県庁を左手に見て坂を下った左側に「出島」が見える。時計を見ると1430分を指していた。  矢上宿を出て約4時間で到着したことになる。「日見峠」の難所越えでやっと「出島」に着いた。
 以前は出島跡の扇型の石垣しか無かったが、今はびっしりと建物・構築物が復元されているではないか。疲れも吹き飛び、早速、内の見学に回る。
 一番蔵、二番蔵、一番船頭部屋、カピタン部屋、ヘトル部屋、料理部屋等昔のままのレイアウトで
復元されているようだ。隣接するオランダ商館跡にも足を運び、おおよそ1時間程度、見学した。

 入場料は無料であり、「さすがは、観光都市長崎である」と感じいった。
遂に、「年内長崎到達」の目標を達成した。黒崎宿→小倉常盤橋を残すのみとなった。達成感に満足し、ビールとチクワを調達し長崎発16時25分発のかもめ36号で帰路についた。






 12月23日(日)、いよいよ、最後の行程であり、地元の北九州を旅することになった。小倉までの旧道を歩行するのは、初めてなので 何か新しいものを発見できるのではないか?と、ワクワクした気分であった
 自宅より、バス・電車を乗り継ぎ10時30分に「黒崎:藤田銀天街」端にある「人馬継所跡」に、到着、早速歩き始める。(人馬継所とは、問屋場とも言い、輸送を担当 する宿場の主要設備であり、参勤交代に必要な人馬の手配、飛脚が運ぶ荷物等も取扱った所 だそうだ) 
 JR鹿児島本線の踏み切りを渡り、100メートル程歩いた所に「東構口跡」があった。(構口とは、宿場の入口と出口に設けられた門塀だそうだ)
 旧道は紅梅1丁目交差点で3号線と一緒になり、しばらく、車を見ての歩行となった。桃園2丁目交差点より、旧道が残っており、エクレール桃園公園のところに、「一里塚跡」があった。      「真照寺」前を通過し、「市立八幡病院」の裏にある旧道を進み、「市立八幡図書館」の玄関横に「国境石」があるのを見つけた。ひとつの石碑には、「筑前国」、もうひとつには、「東豊前国」と彫られているようだ。要するに、この地点が「黒田藩」「小笠原藩」との国境であったと思われた。この地点で時計を見ると11時20分を指していた。

(「市立八幡図書館」の右斜め前には走っている細い道が旧道であり、昔は西本町一丁目交差点から、JR鹿児島線より東田側に入り、再び、中央町から出て、を大蔵に向けて高炉台公園の下を走っていたらしい。)
 大蔵より再び山側に入り、「高見神社」の前を通り、「六条橋」付近から「東鉄町」に入る。旧道の証拠に、神社の前に「国境石」が残っていた。 (これより西、筑前国と彫られているようだ。)
(近くにある大蔵寮で約1年間生活したのにも拘わらず、国境石の存在については、全く知らなかった。恥ずかしい限りであった。)

 東鉄町、荒生田、茶屋町、金鶏町と細い旧道が続いている。八幡東区、小倉北区間に昔のままの街道が残っていることに感動した。このまま残して欲しいものだ。「九州歯科大」の裏手にある「泉台小学校」を通過したところに、「水かけ地蔵」を見つけた。石碑には「長崎行道跡」と彫られている。水かけ地蔵には、二つの言い伝えがある。
 一つは、1500年前から、存在する湧き清水の泉であり、神功皇后が新羅出兵の途中、立ち寄ってお飲みになった。と言う言い伝えがあり、「皇后水」と言われてきた。                 もう一つは、弘法大師が唐から帰国し巡回の時、改めて、旅人の憩いの水とされた。このため、「弘法の水」とも言われてきた。
 しばらくして、「清水3丁目」の交差点に出た。3号線を横切り、旧道はまだ続いている。「清水小学校」の校門横に「長崎街道説明パネル」があるのを見つけた。
 「善龍寺」前を通過した所で旧道が消滅した。「福岡地方検察庁・小倉支部」裏手の所である。ここのあたりに「清水口」があった?と地図に記されていた。
小倉西郵便局裏に「至津口跡」があり都市高速の下を「田町」に向かって旧道が走っているようだ。

 「田町」に入って、中華料理店を見つけたので、昼食をとる事にした。約40分の休憩をとり、再出発した。「心光寺」の前を通過し、大門で再度「魚町」へ向かう国道を横切り、旧道に入り、古い町並みの「室町」を直進すると、遠くに「常盤橋」が見えてきた。「常盤橋」を渡った途端、「遂にやった」と胸が熱くなった。

遂に小倉―長崎間、約57里(228k)を歩き通せた。万歳!!





おわりに

「長崎街道:一人歩き」より10年経った現在、そのきっかけを与えてくれた初孫も10歳となり、先日

は小学校の運動会を迎えるまでに成長した。

「黒崎宿」から「松原宿」までは 歩行した翌日には紀行を真面目に書いていたが、長崎が近くなるに

つれ、サボり癖が出て、歩行記録(メモ)のままにしていた。

先日、高校の同級生と一緒に下関における「維新・海峡ウオーク」に参加し約24k歩行したが、その

時に、長崎の同級生が「長崎街道歩き」にチャレンジしようとしているという話を聞き込んだので、そ

の道の先輩として情報を伝えようと思い、紀行を再整理しひとつの「小冊子」として何とかまとめる

ことが出来ました。今回、これを基に写真の整理を行い、スライド・ショーも付け加えた次第です。

 長崎街道歩行後も、暇をみつけ「唐津街道」「中津街道」」「秋月街道」「薩摩街道「点と点の

つなぎ歩き」で楽しんできました。

 一昨年、退職してから(同級生の)街道歩き仲間に恵まれ「東海道」「中山道」を歩行する事が出来ました。

本年9月下旬には、同じ仲間で「甲州街道」歩行を計画しております。

「街道歩き」に興味を持たれる方、お互いに情報交換をしてみませんか?


       平成23年6月吉日

          Mr.Walk

 

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