10日目  古賀宿から幸手宿へ

 <本日の概要>

 本日から数日は快晴とのこと、やっと三人とも「晴れ男」と言えるようになったのでしょうか?
炎天下の歩行となりましたが、ほとんど旧道歩きとなりましたので遺構が破壊されず多く見られ歴史の再認識が出来、街道歩きの醍醐味を味合うことが出来ました。本日のハイライトは利根川を渡り、東京まで約40kmに迫ったこと。利根川渡りを厳重に取り締まった栗橋関所跡の見物が出来たこと。義経の後を追って平泉へ向かう途中、義経の死を知り、この地の寺で菩提を弔い、その年、病で22歳の生涯を閉じた静御前のお墓にお詣りが出来たことです。歴史街道を充分に楽しみました。明日は越谷宿を目指します。



 本日は素晴らしい快晴、昨日の雨天がウソのような青空が広がっています。ホテルを8時に出発、古河宿を見物しつつ、先ずは中田宿を目指します。

 ●古河宿は江戸から数えて九番目の日光街道の宿場です。その手前が、中田宿、栗原宿、幸田宿です。
  
 又、軍事・交通上の要衝であったため古河には有力な譜代大名が配置されたそうです。11家を数える歴代の藩主のなかでも土井家は、前後150年にわたって古河   藩を治めた。その11代・土井利位(としつら)は、優れた政治家であったばかりか雪の研究家として、『雪華図説』の著者として有名。また利位に仕えた家老に「鷹見   泉石」がいました。有名な蘭学者で有ると共に、利位が京都所司代として在勤中、大塩平八郎乱の鎮圧を指揮したのも泉石です。


  本町二丁目通りを歩行しますと、遺構への案内パネル、博物館、美術館、文化館等への標識が一杯有り、歴史有る街で有る事を教えられました。
 「古河城御茶屋口門跡」に出会いました。


 ●日光社参の徳川将軍は、ここお茶屋口で古河城主の出迎えを受け、茶屋口を左折して城へ入り、宿泊したらしい。  

  引き続き、「長谷寺観音参道入口石碑」がありました。

 ●1493年、古河公方足利成氏が古河城の鬼門除けとして鎌倉から勧請した。奈良県の長谷寺、鎌倉の長谷寺と並ぶ「日本三長谷」の観音と称される十一面観音
  は、鎌倉期の作風を良く残しているらしい。時間の都合で見物出来ませんでした。


 「浄善寺」を前にして、左折し、228号線に乗り移ります。10分程経過した所に、「古河二高」があり、その校庭のフェンスの中に「古河の一里塚」がありまし た。折角の遺跡を隠す?古河教育委員会の考え方が良く解りませんでした。

 
 その後、松原が続く茶屋新田を耽々と歩きました。40分後、JR宇都宮線とぶつかり、「踏切り」を渡り右折します。何と仏閣・神社のオンパレードです。
 「顕正寺」「本願寺」「円光寺」「光了寺」「鶴峯八幡神社」と続き、10時に中田宿へ到着しました。

 ●「光了寺」は静御膳ゆかりの寺。寺には、静が鎌倉鶴岡八幡宮で舞った時に着ていたという、後白河天皇から拝領の「蛙蛾竜の衣」が伝えられているそうです。
 ●「鶴峯八幡神社」は、新田義貞が北条高時追討の折りに、祈念して勝利を得たという言い伝のある八幡宮です。

 ●中田宿は江戸から数えて8番目の宿場町。江戸を発って2日目には栗橋宿か中田宿に宿をとったそうです。

  10時5分に「利根川」を渡り始めました。これまでも、富士川、大井川、天竜川、揖斐川、荒川等の大河を歩いて渡った経験がありますが、「板東太郎」は 流石に規模も大きく他に引けをとりません。久しぶり、歩いての渡河に満足しました。

  渡り切ると「栗橋宿」に入りました。左前方に「八坂神社」が見れます。近くに有る「栗橋関所跡」「本陣跡」も見つかりました。ゆつたりとした昔の宿場風情  が残る町のようです。しばらく歩行すると、「静御膳の墓」への標識が見つかり、(街道筋より少し引っ込んだ場所に有りましたが)寄ることにしました。

 ●江戸幕府は「栗橋関所」を日光街道唯一の関所として、東海道の「箱根」中山道の「碓氷」と並ぶ重要な関所と考え、通行人や輸送荷物を取り締まった特に「入り鉄   砲と出女」は、箱根、碓井と同じように厳しかった。そうです。
   

 ●銀杏の大木を背にして「静女の墓」と刻まれた墓塔が屋根をかけられ大切に祀られている。その左側に並んで建つ二つの石塔は「義経招魂碑」と「静女所生御曹司
  供養塔」でした。1803年関東郡代中川飛騨守田忠秀が墓碑を建立したそうです。義経のあとを追って、奥州平泉へ向かう途中義経の死を知り、この地にあった高柳
  寺に入って、義経の菩提を弔い、その年、病により22歳の生涯を閉じたといわれています。

 
  「静御膳の墓」にお詣りした後、炎天下の4号線に併行した旧道を耽々と歩行します。「会津稲荷」「上川通神社」の前を通り、13時に「小右衛の一里塚」  に着きました。江戸から14番目の塚だそうです、外国府間そとごうま)「雷電神社」を通過し、「行幸橋」を渡り、13時40分に幸手市街に到着しました。

  早めに「幸手宿」に着きましたので、明日の行程の杉戸宿(7km先)まで歩こうと、ホテルに荷物を預け、身軽になって歩き始めました。「明治天皇行在所」
 神宮寺の前を通り、「杉戸宿」を目指します。

 ●「神宮寺」:源頼朝が奥州征伐の折りに、この地で鷹狩をし、戦勝を薬師様に祈って開基したと伝えられています。薬師如来像と脇の十二神将戸ともに立派な彫刻で
  春日賢門作といわれています。


 その5分後、「御成街道追分」に出会う。ここで左の4号線へ行くべきをそのまま65号線を歩いたため、「杉戸宿」へは着くことは出来ず、「和戸駅」から、電 車で「幸手駅」まで戻りました。それはそれなりで御成街道の状況を見る事が出来、有意義であったと思いました。
 

 ●正式には、日光御成街道と言い、江戸本郷追分から中山道と別れ、岩淵を経て荒川を渡り、川口、鳩ケ谷、大門、岩槻の四宿を経て、幸手宿で奥州街道を合わせ  て日光に至る道です。家康の遺骸を駿河の久能山から日光に移した時、秀忠が最初に通行した。以後13回将軍の日光参詣に使用された道です。


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