松陰神社、萩往還公園、東行庵


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<松陰神社>

 
明治23(1890)年に吉田松陰を祀って建てられた神社。松下村塾改修時に松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側
に土蔵造りの小祠が建立された。その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運
動が起こり、明治40(1907)年、県社の社格の神社創設が許可された。現在の社殿は昭和30年に新しく完成したもの。御神体は松陰が終生愛用した赤間硯と父兄宛に書いた文書が遺言によって納められている。旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っている。学問の神として信仰が厚く、境内には、近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した松下村塾や、松陰ゆかりの史跡などが点在。吉田松陰幽囚ノ旧宅(=杉家旧宅)も隣接している。


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<萩往還公園>


「道の駅 萩往還」は旧萩有料道路の元料金所に隣接した道の駅です。萩往還とは萩藩の参勤交代や地域の生活路として開かれた道のことを言います。

萩焼、海産物加工品、地酒など萩のみやげが販売されています。オリジナルのポン酢ドレッシング、萩椿オイル、椙八のちりめんがおすすめです。
また、駅内の松陰記念館では吉田松陰の資料が展示されており、無料で見学することができます。   

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<東行庵>

高杉晋作の遺言によって、奇兵隊の陣屋があった吉田の清水山に葬られた高杉晋作の菩提を弔うために、愛人おうのは
梅処尼(ばいしょに)となって庵を結び、生涯、晋作の墓を守って暮らしました。「東行」は晋作の号で、高杉晋作の墓は、
国指定史跡だそうです。

奇兵隊

 文久三年(一八六三)六月、萩本藩主の命を受けた高杉晋作が馬関(下関)に出張し、武士以外の人たちも入隊を許し、奇兵隊を結成した。
奇兵隊は翌、元治元年、米英仏蘭、四ヶ国連合艦隊を前田砲台などに迎撃し、勇気をもって戦ったが新兵器を有する連合軍に敗退した。
同年十二月、高杉晋作の挙兵後、美東町、大田絵堂の内訌戦に勝利を得たのち、慶応元年四月に奇兵隊は吉田に転陣、慶応三年八月に兵舎、稽古場、講堂などを配した陣屋をこの地に築き移った。
 陣屋では、きびしい規律に従い四百人の志士が毎朝六時起床、八時まで講堂で漢字を学び、九時から調練の日課で、外出は隔日に五人一組で吉田地区内の散策のみが許されたそうです。


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