長府城下町


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 古都:長府のプロフィール


 城下町長府には、西暦一九三年、仲哀天皇、神功皇后により豊浦の宮が築かれた由来から、忌宮神社が創建され、数々の神事が継承されています。大化二年(六四六)には、長門の国府として長府と呼ばれるように 大化二年(六四六)には、長門の国府として長府と呼ばれるようになり、その後長門鋳銭司や国分寺が設置され繁栄を続けてきましたが中世には長門守護所、長門探題も設けられ、政治的、軍事的拠点として重要な役割を果たしてきました。


慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の役後、毛利秀元(元就の孫)が長府五万石の城主として入府以来、武家屋敷の町として平和な藩政時代を過してきましたが、幕末に至り俄然、倒幕拠点の地として目覚め脚光を浴びてきます。


文久、元治の馬関攘夷戦、七卿の来府、蛤御門の変、長州征伐 長州藩は激動と苦難の道を辿ることになります。十二月十五日、功山寺における高杉晋作、回天の義挙により歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎えることになります。 


また、世界的名声を博した狩野芳崖、乃木大将の出身地でもあります。

 
●功山寺

  
鎌倉時代創建、唐様建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺様式を残しており、国宝 に指定されています。また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就に追われた大内義  長が自刃したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。
  

<維新回転の挙兵

 長州藩は存亡の危機にありました。7月の禁門の変、8月の馬関戦争惨敗。さらに追い討ちをかけるように、幕府による長州討伐計画が進んでいました。俗論(幕府恭順)派が主導権を握る長州藩はこれを恐れ、三家老切腹、藩主の蟄居謹慎によって幕府に従う姿勢を示したのです。
 このとき敢然と立ち上がったのが高杉晋作でした。都から落ちのびていた三条実美ら五卿を前に、わずか80人を率いて挙兵した晋作は、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、萩藩新地会所を急襲。後に続いた者たちとクーデターを成功させ、長州を再び討幕へと導きました。この功山寺挙兵をきっかけに、維新が大きく動きます。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」。まさに、日本の歴史を変えた瞬間でした。

 ●古江小路、菅家長屋門(ふるえしょうじ&かんけながやもん)
 
  
城下町長府の中でも、最も城下町の面影を残す古江小路、この城下町長府の武家屋敷は合戦に備えての防衛的配慮がな されており、土塀は防壁として築かれています。そのため、町筋は必ずしも碁盤の目でなく、T字形になった部分も多く、わざと 迷路のように作られた所もあります。
 

  また、この小路には、長府藩初代藩主毛利秀元により、京都から招かれた待医兼侍講職を務めた格式ある家柄であった「菅 家長屋門」があります。


 ●乃木神社、横枕小路(よこまくらしょうじ)

  明治天皇に殉死した乃木希典(まれすけ)将軍を祀っています。乃木神社を出て右横の横枕小路に入ります。樹葉に覆わ れた練塀のある小路です。
 
 

●忌宮神社(いみのみやじんしゃ)

長門国二の宮で、仲哀天皇・神功皇后が西国平定の折、ここに豊浦宮を建て、7年間滞在したといわれています。

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