東海道53次紀行


<はじめに>

 東海道を旅するチャンスが到来しました。長かった会社人としての務めから解放されることになりました。(6月29日付け)
 暇が出来たら53次をやってみたいと、心を温めていました。妻に話すと直ぐに行ってらっしゃいとの答えが返ってまいりました。
 そこで、友人のN君に相談すると「行こう一人では行けんから」という返事が返ってまいりました。心を強くして、他の友人達にもメールで参加を募りました。  岡山在住のK君から、すごく興味があるが何故今なのか?(梅雨時に)と言う質問がありました。答えとして、

  ①梅雨時の雨は一日中降らない。むしろ炎天下を避け涼しいと思う。
  ②リュックの持ち物も軽くてすむ。(秋は持ち物が大変だ。かつ、雨となれば一日中となる)
  ③もし、大雨の時は、交通機関を利用し、笠をさし、近くの遺跡巡りに特化すれば良い。 等等の返事をしました。
 理屈よりも本人の興味が優先し、参加する旨の返事を得ました。

  7月3日に上京し、東京在住の友人達が13人位集まり、「壮行会」をもようしてくれました。中には、京都三条大橋まで本当に行けるのか?と言う方もいま したが、決意は固い旨の話しをすると同時に、E-モバイルパソコンを持参してきたので、毎日の「旅日記」を共通のホームページに掲載する事を約束し、絶 対に実現すると自分自身に誓いました。

 
                                    

2009年7月4日一日目
日本橋から品川宿7.8km

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 昨日の壮行会で飲み過ぎたのか少々頭が重い。10時に東京在住のKu君が「お江戸見学」を案内してくれる
と言うことで、「京橋」のホテルから室町界隈へ歩いて行く。まずは朝食をと店を探すが、土曜日のせいか開いている店が無い。やっと「そば屋」を見つけ、空腹を満たす。
 10時丁度にKu君が日本橋に姿を現した。早速「お江戸見学」である。今日はリュックなしの歩行であるので、
身が軽い。銀座一丁目から六丁目・・・と足早に歩く。Ku君が最近開発が著しい「汐留地区」を見ようと案内してくれる。あの国鉄時代の貨物列車置き場だった所に、すごいビル群が立ち並び、又、億ションと思われる構造物が多数 建っている。さすが、東京にお金が集まっている象徴と感じた。
 次に、浜松町の徳川家の菩提寺、墓所となっている「増上寺」を見学する。何故か墓所は立ち入り禁止となって
おり、残念でした。
 その後、NEC本社ビル前を通り1号線を跨いだ所に、元、薩摩屋敷群が存在し「西郷と勝海舟が会見した
場所の碑」があることを見つけました。これにより、江戸城の無血開城がなされたと思うと、感慨深いものでした。
 次に高輪地区に入りました。まず、遭遇したのが「高輪の大木戸跡」でした。江戸市中ヘの出入り口で見張り番所があり、物々しい警戒の場所であったようです。
 続いて「泉岳寺」へ、吉良邸に討ち入り、一躍時代のヒーローとなった赤穂浪士が眠るこの古刹は、家康によって桜田門外に創建され、寛永の大火の後、現在地に移されたそうです。大石主税のお墓を見ると何か物哀しく
なりました。
 品川駅で本日お世話になったKu君と別れ、品川宿を目指します。春は桜、秋はハゼ林の紅葉見物を口実に
御殿山に来た男性達は、山裾の品川宿の飯盛女に気もそぞろ。
 「今生の別れ」とは言いながら、品川で一泊する旅人は少なく、むしろこの宿は、見送りに来た江戸っ子たちの
遊興地であったそうです。
 一方、これまでのビル街と異なり、昔風の風情を持つこの町に、「街道歩きをしているんだ!」という思いを
再認識させてもらいました。特に「青物横丁」はすばらしかったと思います。
 夏祭りに沸く京浜急行「立会川駅」で一日を終え、「京橋」へ戻りました。


2009年7月5日二日目
品川宿-川崎宿神奈川宿19.6km
moviephot  本日からリュックを背負っての本格的な歩行となる。10時に京急「立会川駅」で、本日同行してくれる専門ガイドのHa君、東京在住のNk君と久しぶりに再会、歩き始めました。
 直ぐそこに「涙橋」を発見、「鈴ケ森刑場」へ送られる罪人を見送る別れの場所であったそうです。みせしめのために、あえて人通りの多い街道筋に刑場が置かれたそうです。「首洗い井戸」など物騒なものがありました。
 ここで、旧道は消え、第一京浜国道沿いを5人で耽々と歩きます。大森海岸駅の少し先に、「磐井の井戸」を見つけました。この井戸には、心が正しければ清水、邪心があれば塩水という言い伝えがあるそうです。その後、
蒲田駅付近のコーヒショップで一回目の休憩。それから1時間の歩行で「六郷橋」に出ました。この六郷橋は「先住」「両国」と並ぶ”江戸の三大大橋”と呼ばれるほど立派なものであったそうです。この橋を渡ると「川崎宿」です
。「田中本陣跡」、「佐藤本陣跡」がありました。この辺りが、当時の川崎宿の中心、新宿であったそうです。
 「六郷大橋」が洪水のたびに流されるため、「本陣」「問屋」「名主」が渡し船を始め、船賃を宿場収入としたことから、宿は繁栄したそうです。ここで、昼食をとることにしました。「吉野家」へ入り、それぞれ好みのメニューを注文、私は、うな丼とビールを頂き一息つきました。
 食事後、Ha君は所要があるという事で、離脱。4人での歩行となりました。鶴見で江戸から五つ目の一里塚で
ある「市場村一里塚」をみて鶴見大橋を渡り、旧道に出ました。魚屋が並ぶ魚河岸通りには多少旧街道の雰囲気が残っています。
 途中、民家の塀に「生麦事件発生の現場」の表示が掲げられていました。キリンビール工場横で国道と合流する辺りに、「生麦事件の碑」がありました。それから、炎天下を一時間程歩き、宿泊先の「さくら旅館」に着きました。洗濯を女将さんに頼み、外出、四人で中華料理に舌づつみを打ちながら、本日の反省会を行いました。



2009年7月6日三日目
神奈川宿-藤沢宿:21.5km
moviephot  本日は、箱根駅伝で有名な「権太坂」「戸塚縮」を通過し、藤沢宿へ向かう。あいにく雨の中の歩行となる。
今日もガイド役のHa君が同行し、8時に「さくら旅館」を出発。旅館と隣りのフランス公使館であった「甚行寺」
斜め前方のフランス領事館であった「慶運寺」を横目に旧東海道を行く。台町の坂を上りきった所に「神奈川台関門跡」の碑があった。高速道路をくぐり県道にぶつかった所に「浅間神社」があった。冨士山の空洞と繋がっているらしい。そのまま、「松原商店街」を通過し、近年「たまちゃん」で有名になった「帷子川」にかかる橋を渡ると
相鉄「天王町駅」に突き当たる。JR「保土ヶ谷駅」で一時休憩、その後国道一号と合流すると、「保土ヶ谷本陣跡」があった。この頃より本降りの雨となる。10分位経った所に立派な「保土ヶ谷松並木と一里塚」があった。国道と別れ左へ曲った辺りから「権太坂」が始まる。だらだらとした坂が1キロ半ほど続く。雨の中、傘をさしての登坂
はやはり堪える。登りきったところに立派な「屋敷門」があった。すぐ近くに、「境木立場跡」の標識があり、ここが
武蔵と相模の国境でもあるらしい。
 その後、相模の国に入り、「焼餅坂」「品濃坂」と呼ばれる切り通しの坂を下ると、「品濃一里塚」があった。1号線と出会った所で食事休憩をとる。「ざるそば」を注文、味はすこぶる美味であったが、結構な値段であった。
食事の間に、雨も止み青空さえ覗くようになった。1号線沿いに戸塚宿を耽々と目指す。「本陣跡」「江戸見附跡碑」があり、この辺りが「戸塚宿」の入り口であるらしい。その後、40分程でJR「戸塚駅」前に到着する。本日の
2/3の行程は確保できたようだ。
 小休止後、「おおさか」という坂道を登っていく。「原宿」より左折し、下り坂となる。通行人の話では、藤沢まであと一里強はあるらしい。最後の力を振り絞り坂道を下る。藤沢バイパスの分岐を左にとると「諏訪神社」があり、この辺りから、歩道と車道を分けるように、「鉄砲宿の松並木」が続く。道場坂を下っていくと、「一里塚跡」、右手に「時宗総本山遊行寺」の入り口が見える。時間が無いので立ち寄らないことにした。「藤沢橋」を通り、17時
ごろ到着。雨にやられたので服はぐちゃぐちゃ、コインランドリーを見つけ、まずは洗濯。その後、スーパーで購入した惣菜とアルコールで酒盛りとなった。



2009年7月7日四日目
藤沢宿-小田原宿32.2km
moviephot  本日は、茅ヶ崎、平塚、大磯等相模湾に面した所謂「湘南地区」を通り小田原宿まで歩くことになる。歩行距離も初めて30kmを超える。今日もHa君がナビゲートしてくれる。心強い限りです。茅ヶ崎の手前で合流、青々とした松並木を左右に愛でながら、茅ヶ崎宿へ向かう。途中、立派な形の「茅ヶ崎一里塚」があった。
 それから30分程経った所に「旧相模橋橋桁」を保存している場所があった。関東大震災時に露出したもので
、場所を変え保存しているの事であった。しばらくして「馬入川」を通過する時、この旅における初めての冨士山の姿を見る機会に恵まれた.夢中でシャッターを押し続けた。
 「平塚宿」に入ったが、昨日まで町を挙げての七夕祭りを催していたらしく、そちらこちらに残骸が残っていた。
まず、昼食をとる。昨日と同じく「ソバ」である。歳相応の昼食メニューである。(又、同じかよ!と誰も文句を言わない。平塚宿は大きな宿場であったそうだ。「江戸見附」「高札場」「本陣旧跡」「問屋場跡」「京方見附跡」等の旧跡が1km余り続いていた。
 「京方見附跡」を過ぎると、右側に「高麗山」の姿が見えた。(高麗の王族が住んだとも言われている)これより
「大磯宿」に入る。この大磯は伊藤博文をはじめとする歴代の総理10人程度が住んだと言われ、「吉田茂邸」への大磯詣で有名な土地である。昔は宿場町、今は海水浴場の町として知られている。「松並木群」も素晴らしく、都会とは全くかけ離れた鄙びた町と思えた。密談の場所としては、最高ではなかったろうか?「吉田茂邸」の右横
から「冨士山の勇姿」を拝顔する事が出来ました。それから、1時間ほど経ち「一里塚」に着きました。表札には
「江戸から17里」とあります。まだまだ京都は先だなと思うと、どっと疲れが出てまいりました。本日の宿拍地である小田原「鴨宮」までは未だ6km位の距離がありそうです。
 その後、相模国総社「六所神社」に参拝、「車坂」を通り、18時頃ホテルに着きました。7時出発し、11時間かけ、約36km歩いたようです。とにかく疲れました。
 Ha君、3日間にわたるナビゲート誠に有難うございました。



2009年7月8日五日目
小田原宿-箱根宿16.5km
moviephot  今日は、いよいよ天下の険である箱根越えである。小雨模様で少々気にかかる。連日の長距離歩行で疲れが出ている。峠越え、又今後の長丁場を考慮すると無理はできない。途中までバスで行こうと決心する。
 K君は8時半にホテルを出発。小田原の平地から果敢に挑戦する。13時頃、「畑宿」で合流。「一里塚」の右横から「石畳」が続いているようだ。滑らないように、苔蒸した石畳を一歩、一歩慎重に登って行く。
 「西海子坂」「橿木坂」「猿滑り坂」とかなりの勾配の石畳が続く。1時間程経ち「甘酒茶屋」に到着。疲れた体に
甘酒が心地よく響く。少々長く休憩をとった。女将さんから東海道歩きの方は、この「御芳名帳]に記帳されますよ
と言われ、住所、氏名を記帳した。今回、日本橋より、街道歩きらしき人とは未だ出会っていないが、結構な人数
の方々が自分達と同様な事をしているんだと言うことを悟りました。
 元気が戻ったところで、「お玉坂」「白水坂」「天ケ坂」を登って行く。途中、「お玉ケ池」があった。(この言われは
、お玉が江戸から国元に帰る途中、手形が無いので箱根関所を通過出来ず、裏山を通り抜けようとした時、捕り
処刑され、その首をこの池で洗ったことから・・・であるそうです)「天ケ坂」よりは、下り坂になっており、軽快に下って行きますと、「元箱根」「芦ノ湖」湖畔に出ました。「箱根神社」の赤色の鳥居がやっと着いたと安心感を与えてくれました。しかしながら、宿のある「箱根宿」はここから、約1里先にありました。樹齢およそ350年の「杉並木」が続く中、「箱根関所」へと向かいます。関所を越せば、箱根宿です。昔は、本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠は36
軒と東海道随一であったそうです。現在、その面影はなさそうです。旅館に着いて、一騒動がありました。近くに、
コインランドリーは無く旅館の洗濯機を使用させてくれと言っても、従業員専用だから駄目と言う事でもめました。
 もう一点は8畳の部屋に3人を押し込めた事にありました。他の客は一組だけでガラ空きの状態でした。もう少し広い部屋を与える等、客に対する配慮があればと思いました。風雨の中の登坂、旅館の処遇に対する不満
が残る一日でした。



2009年7月9日:六日目
箱根宿-原宿26.5km
moviephot  本日は、三島宿、沼津宿を経由して「原宿」までの27kmを歩行する事になる。宿の外を見ると、風が吹く中、霧雨の状況のようである。期待した芦ノ湖の上に聳える冨士山の姿を拝むことはできなかった。9時に旅館を出発、「箱根駅伝の折り返し点」を見つつ霧雨の中、「向坂」を登り峠を目指す。ものすごい霧である。視界2m程度であろうか?1号線なので後方から来る車が怖い。1時間程で箱根峠に到着。本来ならば、素晴らしい眺望が開けているはずであるが。パネルの写真を撮って満足するしかない。道の駅があるので小休止することにした。
 これからは、「西坂」の下り坂となるので楽になる筈であるが相変わらず霧がすごく、道に迷い、20分程度時間をロスしたようだ。藪だらけ、ぬかるんでいる旧道歩行を諦めて1号線を下って行きます。
 1時間程経ち、霧もややおさまり人の気配がする場所に下りてきたようです。土塁、濠らしきものがあり、「山中城址跡」と表示されています。(標高580mに位置する自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって西方の拠点として 重要視されていたが、小田原攻めの秀吉の大軍の前に1日で落城したと記されていました)
 その後、30分程歩行しやっと茶屋(ラーメン屋)を見つけました。13時頃でしたのでお腹がすいていたせいか、
非常に美味でした。しばらく休憩した後、三島の街を見つつ下りて行きますが、なかなか街まで到着できません。
かなりの高度差があったのだと思われます。30分程下りたところ、三島宿の手前に「初音ケ原石畳遊歩道」が
あり、まさに旧街道歩きの気分で歩行します。「錦田一里塚」「初音ケ原松並木」あり、気分は最高でした。
 「三島宿」の旧道は通らず、1号線で「沼津宿」へ向かったため、旧跡には殆ど出会わず、「柿田川公園前」
「頼朝・義経の対面石」表示の標識及び「大岡歴史マップ案内板」を見て、沼津宿を通過し、「原宿」に18時頃
到着しました。「原宿」からの冨士山の眺めは最高だと聞いていましたので、期待したのですが、残念ながら
雲がかかり、見ることはできませんでした。




2009年7月10日:七日目
原宿-由比宿:26.7km
moviephot  本日は、吉原宿、蒲原宿を通り「「由比宿」まで27kmの旅です。中でも、このコースは冨士山を見る最適なビューポイントが沢山あると本に書いてありますので楽しみです。8時半に女将さんも入った記念写真を撮り、「千本松松並木」の中を歩きます。すごい本数の松並木です。これでは、一里塚等の史跡には巡り会わないことから
国道沿いを歩くことにしました。これも旧道でなく誤りと解りましたが、もう少しで交差するという事なので、そのまま歩行しました。
 1時間程歩行し、有名な「田子の浦」に着きました。西風が強く吹き飛ばされそうでした。冨士山の方向を見ると
厚い雲がかかりその勇姿を拝むには至りませんでした。土地の人がこのような事を言いました。「見たい人には見せぬ富士、意地悪な富士」。旧道を耽々と歩き、「JR吉原駅」で小休止いたしました。その後、「平家越えの碑」に出会いました。(1180年、源氏、平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、眠っていた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は夜襲と思いこみ、西へ逃げ去ったとの事です)

 吉原宿に入ったのが丁度昼食時でした。吉原名物××焼き(焼きそばみたいなもの)を戴き満腹いたしました。
吉原宿を出て旧道を歩こうとしましたが、道を間違えたようで約2時間後「冨士川」に着きました。川幅が広く、素晴らしい水量で、とうとうと流れています。こんな川を見たのは初めてのことで感動し、しばらくシャッターを押し続けました。
 肝心の冨士山は稜線を僅かに見せているにすぎず、全体像を見せてくれませんでした。(でも川で満足いたしま
した。)1時間程後、「蒲原宿」に着きました。「東木戸跡」から中へ入って行きます。時代劇ロケでも使用可能と思われる古い町並みが続いています。地域で保存に力を入れているようです。ここでも夢中でシャッターを押し続けました。
 17時に「由比宿」に到着、洗濯は御主人がしてくれるということで、ひと風呂浴び、夕食となりました。
名物の「桜エビ」「しらす」料理で満喫致しました。



22009年7月11日:八日目
由比宿-府中宿:23.9km
moviephot  本日は、興津宿、江尻宿(清水)を経て24km先の「府中宿(静岡)」を目指します。8時、旅館の孫娘さんの「行ってらっしゃい」の言葉に乗せられ出発する。楽しみの薩埵峠」越えです。天気が良いので冨士山みえるかな?と思いつつ「蒲原宿」に似た「由比宿」の町並みを歩行いたします。あちらこちらに、由緒のある家の説明板が立っています。相当に古いままの姿で保存されているようです。右側に急坂が見えました。いよいよ登りです。昨日「桜エビ」料理を堪能し、飲んだアルコールの負担がこれから来そうです。45分位の登坂で「薩埵峠」に着きました。冨士山は稜線だけの姿で今日も勇姿を見せてくれません。隣にいた方に尋ねますと、11-3月は素晴らしい姿を見せるとのことで、(時期ではない、無理もない)なと自問自答した次第です。昔薩埵山は、戦いの上で、戦略的な場所であったようです。①武田信玄が駿河進攻の時、今川氏真、この山に迎え討ち敗退②今川氏救援のため出兵した北条氏と武田軍が3ケ月余り対陣等等、パネルに書かれていました。

 峠を降りて「興津宿」へ向かう。興津は古くから交通の要衝として知られ、宿場町として賑わったとの事です。JR興津駅 から少し先に、城郭のように見えた寺がありました。「清見寺」という寺で奈良時代に創建された古刹で家康とのゆかりも深く、今川家の人質で駿府にいた頃にしばしば訪れていたようです。庵原川を渡り、「江尻宿
に入ります。この宿は、駿河では府中に次ぐ宿場であったそうです。今は「清水銀座」という商店街になっていて当時のお目陰はなさそうです。むしろ「清水次郎長」の清水港で知られる町であるようです。ここで昼食、小休止をとり、河童の像が立っている「稚児橋」を渡り、府中(静岡)へ向かいます。途中、道を迷いましたが17時頃「府中宿」に到着。風呂を済ませ、コインランドリーに直行。途中、ガソリンスタンドで良い店を紹介してもらう。「さしみ」「やきとり」「ニンニクの丸焼き」・・・等等、久しぶりの多数のメニューを楽しみ、脳も満足した夕食となったようです。



22009年7月12日:九日目
府中宿-島田宿:28.8km
moviephot  本日は丸子宿、岡部宿、藤枝宿を経て29km先の「島田宿」を目指しまず。安部川を渡り丸子へ向かう。家康は 関ヶ原で敵対した薩摩藩に命じ、府中の街の防備とするため”薩摩土手””を安部川に築かせたそうです。
 丸子宿ヘ着き、丸子名物:麦飯とろろ汁の「丁子屋」が眼につきましたが、未だ10時で昼食の時間でもないので素通りいたしました。丸子宿の外れで、どちらの方向か?ウロウロしている所、「街道歩きの方ですか?」と
後ろの方から声をかけられ、地図を見せた所これでは役に立たない、自分が所有している旧街道地図を差し上げましょう。次の道の駅で待っていて下さい。⇒40分後に地図を入手、「旧街道歩き」に協力的な人との出会いがあり、感激いたしました。
 その地図に従い、「宇津ノ谷集落」に入って行きます。秀吉から陣羽織を褒美に貰ったという「羽織屋」を右横に見つつ、石段を登って行きます。「明治トンネル」を抜けると、秀吉が小田原攻めの時に築かせた旧道に戻りました。宇津ノ谷峠を下り、国道1号と合流。道の駅で昼食休憩をとり、県道208号を歩行し「岡部宿」に入る。
 歴史資料館も兼ねた「大旅籠柏屋」があった。昔の暮らしを想像出来るような資料がいっぱいあり、観覧させていただきました。
 「岡部宿」からは松並木の続く1号線を歩き、一時道に迷うものの「藤枝宿に着きました。藤枝宿は「田中藩」の城下町にあり塩商人が行き交った交通の要衝でもあったそうです。
 続いて「島田宿」に入りました。この島田宿は東木戸」「から「西木戸」まで2kmと非常に長い宿場町で千戸を越す民家があったそうです。本道から左に約1kmの所にギネスブックに載った「世界一の木製橋:蓬莱橋」があるらしい。立ち寄る事にいたしました。素晴らしい!!大井川を跨ぎ直線で1km程度の長さはありそうです。近くには、電柱、電線類は見当たらず、時代劇のロケには最適な場所であると思いました。



2009年7月13日:十日目
島田宿-袋井宿26.9km
moviephot  本日は金谷宿、日坂宿、掛川宿を経て27km先の「袋井宿」を目指します。本日も天気は良いようです。
まず、「大井川河渡り遺跡」を見学します。当時の、川渡り道具(籠、艪など)、待機のための旅籠(川宿)等、珍しいものを見ました。それから「大井川大橋」を渡ります。長さが1.3kmもあり、渡るのに13分ほどかかりました。

 対岸は「金谷宿」であり、遠江国に入りました。金谷宿は西側の川渡り拠点であり、大井川川渡り遺跡と同様なものがあったようです。
 しばらく行くと、「金谷坂石畳」が始まる。急坂と丸石ばかりの石畳は足腰に堪えます。坂を登りきると、左写真のように一面、茶畑でした。やがて「菊川坂石畳」、山道をさらに行くと間の宿「菊川の里」に着きました。
 ここから、「小夜の中山」ヘ旧勾配の坂道が続きます。「小夜の中山」は箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道の
三難所と言われています。右手に真言宗の名刹「久延寺」がありました。ここには「夜泣き石」がありました。
(盗賊に殺された妊婦の腹の子が助かり、その子を久延寺の住職が水飴で育てたが、死んだ母の霊がこの石に取りつい
毎夜鳴くので読経して慰めたという伝説の石でした。又、ここには掛川城主の山之内一豊が関ヶ原に向かう徳川家康をもてなしたという「接待茶屋」がありました。
 その後、中山峠はフラットな道となり、歩き易くなりました。「峠の一里塚」を越すと、怖いほどの(下りの)急坂となりました。(参勤交代の折、殿様方はどうされたであろうか?籠の中にいるのは物理的に不可能と思われました)
 「日坂宿」に着き、時間を見ると、丁度昼食時間となっていましたので旧道は通らず、一号線を歩行し「茶屋」をさがしていたところ「道の駅」がありました。メニューも多く、美味でした。のどが相当渇いていましたので、グイ飲みしたビールが素晴らしかったです。
その後、一号線を歩き続けましたが、みるべき所は少なく、雄大で美しい「掛川城の天守閣」が眼に残りました。
 本日の歩行で、行程の約1/2を消化した次第です。



2009年7月14日:十一日目
袋井宿-舞阪宿:33km
moviephot  本日は見附宿、浜松宿を経て33km先の「舞阪宿(浜名湖畔)」を目指します。道中一番の長丁場で天気も良すぎるのでバテないように頑張ろうと思います。
 県道413号線に合流し、しばらくすると「木原一里塚」があり、その北の神社辺りは「木原畷」の古戦場であったそうだ。写真では見難いですが中心辺りに家康の腰掛け石があります。
(1572年、鷲巣の久野城を攻めた竹田信玄は、ここ木原に陣を張り、浜松城を守る徳川家康の偵察隊と衝突いたしました。この戦いが、世にいう「木原畷」の戦いで、「三方ケ原の戦い」の前哨戦とも言われているようです)
 それから1号線を耽々と歩き、1時間程で「見附宿」に着きました。
(見附は平安末期に国府が、南北朝時代には守護職が置かれた遠江国の中心で、鎌倉時代には、新田義貞軍と足利尊氏軍が戦った場所でもあるそうです。)
 しばらくすると「暴れ天竜との異名を持つ」天竜川に出会いました。大井川以上の川幅がありそうです。「新天竜川橋」を歩行しました。2/3以上を進行したところに江戸より250kmの標識があり、記念写真を撮りました。半分以上歩いて来た 事になります。橋を渡り切るのに15分かかりました。(大井川橋は13分)
 左折し、浜松までの旧道を通ります。途中立派な屋敷が目につきました。「金原明全生家」とあります。
(明全は明治・大正期の実業家。植林や治水事業に私財を投入し、生涯をかけて取り組んだそうです。)
所々、街道特有の松林が点在しています。昼食時となりましたので休憩を取る事になりました。メニューはこれまで「ソバ」に特化?していましたが、ビールとともにランチを戴きお腹が一杯になりました。
 「浜松駅」に所要があり、旧道を外れたため「高札場跡」「本陣跡」等の史跡に出会うことは出来ませんでした。
(浜松城の歴代の城主は、浜松城下の整備に努め、商人に塩や魚の専売権を与える等、商業の発展に力を注ぎ、宿場も活況を呈したようです。)
 「舞阪宿」までは未だ11km残っています。見るべきものもなく耽々と歩行いたします。2時間程経って、素晴らしい「松並木」に遭遇いたしました。(700m、330本、規模の松並木でした)
 炎天下、33km歩き、疲れ切った我々を、土地の親切な奥さんが民宿まで誘導してくれました。



2009年7月15日:十二日目
舞阪宿―吉田宿24km
moviephot  本日は新居宿、白須賀宿、二川宿を経て、24km先の「吉田宿(豊橋)」を目指します。まず、昨日見てなかった舞阪宿の良く整備保存されていた「脇本陣跡」を見学いたしました。しばらくすると「浜名湖」が見えてきました。
 浜名湖はかつて閉じた淡水湖であったようですが、室町時代の大地震により、外海と繋がり、舟で渡るようになったようです。当時の渡し場跡である「北雁木」が保存されていました。現在は、橋により陸行出来るので、穏やかな浜名湖と朱色の「弁天島シンボルタワー」を横目に「新居宿」へ向かいます。1時間程で「新居関所跡」に着きました。幕末の安政2年に建てられたこの関所は、全国でも唯一当時のままに残る貴重な建物で、かつての宿場の雰囲気が解るような気がいたしました。
 「新居宿」を後にして、片側に松並木の続く旧道を右手に見つつ新道を往く。遠州灘を望む浜で一時休憩した後「白須賀宿」を目指す。「白須賀宿」は過去に大地震による津波のため現在の高台に移ったと言われていますが、確かに急坂の「潮見坂」を越える必要がありました。頂上の「潮見坂公園」からは雄大な遠州灘を一望に出来ました。海を眺めつつ、宿へ入る。現在も道幅は狭く、古い家並みをとどめた趣のある宿場町でした。
 「白須賀宿」を出ると、境川という小さな川に行き当たる。ここが遠江と三河の国の国境であるそうだ。ここを境に赤土の山が現れ、黒い土の東国と地質がかわってくるとも言われているそうだ。日本列島の東西の境はどこか?と話題になるが、興味深い話であると思います。
 「二川宿」へは両脇に田園風景の広がるのどかな道を往く。「二川宿」には古い家並みも所々に残り、堂々たる
本陣が復元、公開されているというが、「吉田宿」までに未だ6kmの距離を残していたので、外から一寸覗くだけで寄らずじまいであった。一号線を1時間歩行半程、耽々と歩行しました。
 左手に[吉田宿:東惣門]が見え、やっと到着いたしました。ホテルのある「JR豊橋駅前」まではそれから30分程かかりました。天気が良すぎたせいか距離の割には疲れたようです。




2009年7月16日:十三日目
吉田宿-岡崎宿:26km
moviephot  本日は御油宿、赤坂宿、藤川宿を経て26km先の「岡崎宿」を目指します。8時に吉田宿を出発。しばらくは旧道 を歩行していましたが、コンビニ等がないため、1号線を歩行する事にしました。途端に、「300.5kmの標識」が目に入りました。新天竜川橋上が250kmでしたから、それから50km京都へ近づいたことになります。
 しかしながら、後ほど解ったのですが、旧道を通っていれば東海道一と言われる「御油の松並木」を拝見出来たのですが見落としたのが残念でした。又、御油宿と赤坂宿は、広重の絵で旅の風情が生き生きと描かれているそうで、特に、赤坂宿は旅籠の様子を詳細に描かれているそうです。旧道を通るべきだったと言っても後の祭りでした。「本宿」からは、旧道と一号線がほぼ重なっていましたので遺構類の見落としはありませんでした。
 家康とのゆかりが深い「山中天神社」を左手にみて、少し往くと藤川宿の「東棒鼻跡」に出会いました。
 
(棒鼻とは宿場への出入り口のことで、大名の通行際には、役人がここで出迎えたそうです)
又、標識にも岡崎ヘは一里半と表示されています。「藤川宿」も昔風の町家が整然と1kmほど続いていました。
町をあげて整備保存に力を入れているように思えました。街外れには、「素晴らしい松並木」が400mほど、延々と続いていました。
 藤川宿を出て、北西の方向へ耽々と歩行いたします。遺構らしきものは見当たらず、「岡崎城」を早く見てみたいという思いに駆られます。約1時間ほどで岡崎に到着。岡崎城のある「岡崎公園」まではそれから40分程かかり 大手門を見たときは、夕暮れ時で、岡崎城は翌日見学する事にいたしました。旅館の側の、外濠に当たる川
に、「竹千代橋」という橋がありました。家康の「岡崎城」である事を再認識した次第です。

 


2009年7月17日:十四日目
岡崎宿-宮宿:33km
moviephot  本日は池鯉鮒宿、鳴海宿を経て33km先の「宮宿」を目指します。8時に宿を出発する際、雷と共に雨が降って来ました。 「親切な女将さんから、そこにある傘3本持っていっていいよ」と言われ有り難く頂戴いたしました。小さな旅館でありましたが、昨日は洗濯もしていただき、家族的で本当に良い旅館でした。
 旅館を出てすぐ右手に「竹千代橋があり、これを渡ると岡崎城内に入りますが、傘持っての城見学は躊躇し、諦めました。「岡崎城天守閣」を右手に眺めつつ歩行いたします。雨がどんどんひどくなってきました。
 「矢作橋」を渡る時は、土砂降りで、歩道に国道の水が流れ落ち、歩きづらい状況となってきました。開店前のお店の軒下でしばらく雨宿りして様子を見ます。今日は、遺構等はじっくり見学できそうにありません。
 しばらくして小降りとなりましたので、一号線を傘をさして耽々と歩行いたします。「桶狭間古戦場」を見るためには、旧道を通る必要がありそうです。それから、旧道探しに時間をとられました。
 そうこうしているうちに、「K君の叔母上が危篤状況」との情報が入り、K君は至急岡山に帰ることになりました、その選択はただしかったようで、帰り着いたとき対話が出来たそうです。(そのK君は、8月9日~13日の4日間で残された 池鯉鮒宿から京都三条大橋まで、一人で再チャレンジし、踏破いたしました。)
 話は戻りますが、「池鯉鮒宿の本陣跡」を見つけ、「逢妻橋」を渡り、一号線と合流し、しばらくすると「刈谷市」に入りました。「いもかわうどん」と表示された遺跡みたいのものに出会いました。(江戸時代の東海道も紀行文
には、いもかわうどんの表示が良く出てくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わり「ひもかわうどん」として
現代に残り、今でも東京では、うどんのことをひもかわとよぶとパネルに説明されていました。)

 その後、期待していた「桶狭間古戦場」は見付けることが出来ず、「熱田神宮」に着きました。
(ここの創建は、景行天皇の時代とされ、その皇子:日本武尊が東夷征伐に際して、伊勢神宮の「倭姫の命」から授けられた草薙神剣を、御霊代とする社だそうです。)
 残念ながら、本殿は改修中で見学をすることは出来ませんでした。




2009年7月18日:十五日目
宮宿-亀山宿:34km
moviephot  本日は、桑名宿、四日市宿、庄野宿を経て34km先の「亀山宿」を目指します。ホテルを8時に出発、名鉄線、近鉄線に乗り換えて「桑名宿」まで電車で移動します。昔は、「宮の渡し」から「桑名の七里渡し」まで船で渡っていたようですが、現在は、ボランティア組織で3回/年船渡しをしているようですが、直近としては10月にしかないという事で、電車で移動したわけです。
 「桑名駅」到着後、真っ直ぐに「七里の渡し」を目指します。桑名駅から約2kmの所にあるようです。途中に、「海音寺(薩摩義士墓所)」があり、立ち寄ることにしました。
(当地方に度々水害をもたらした木曽、揖斐、長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠牲者を言うそうです。
当寺には大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任をとり、腹切した奉行を中心に24義士のお墓があるそうです。)
 渡し場の西側には、「大塚本陣跡」「脇本陣跡:(山月)」が夫々高級料亭として残っていました。「七里の渡し場」は碑と常夜燈をのこしているのみで、現在は護岸整備が進み、昔日の面影はなさそうです。昔、美濃国内の年貢米はすべて桑名に集められ、米市場も開かれるようになり、その相場は、全国の市場に影響を与える程であったそうです。こうして商業が隆盛し、伊勢参宮の旅人等で賑わった桑名宿は宮宿と並んで、東海道一二を競う宿場町となったそうです。交番所でもらった桑名マップには49店の「蛤料理屋」が紹介されていましたが、とても高価そうで口には入りませんでした。
 続いて、四日市の追分ヘ、ここでお伊勢参りの人達と京を目指す旅人は、左右に分かれます。参宮客は左手、
海岸沿いの伊勢街道へ。東海道は鈴鹿川に沿うように西へ向かい、右に御在所山を望みつつ、亀山を目指します。
 「亀山宿」にある「亀山城」は胡蝶城とも呼ばれ、姿の優雅さで知られる城であったそうです。現在は、濠や、土居、石垣の上に多門櫓等が残っているにすぎません。歴史的には、信長の死後、柴田勝家と連携した滝川一益
の拠点となった城です。その後三法師の後見人の織田信雄が北伊勢攻めの総大将として迎え入れられました。
 賤ケ岳の戦いで秀吉の天下取りが成就する事になりますが、天下取りの一ステップとしての背景となった城の
一つであったようです。




2009年7月19日:十六日目
亀山宿―水口宿:33km
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 本日は、関宿、坂下宿、土山宿を経て、33km先の「水口宿」を目指します。又、「鈴鹿峠」越えとなるので、早めにホテルを出発いたしました。亀山宿を出た街道は、「鈴鹿峠」の東南麓の「関宿」にいたりました。江戸から、443km の地点です。
 東西1.8kmにわたって宿場時代の民家が続く「関の町並み」はs59年に国の「伝統的構造物群保存地域」に指定されたそうです。電柱が無く(埋設?)、とにかく美しい町です。折からの夏祭りで家々の軒下には色とりどりの
提灯が飾られています。前方に、鈴鹿の山塊が迫り、古い町並みが続く景色はこれまでの街道歩きで、見れなかった情緒たっぷりの感があります。夢中でシャッターを押し続けました。
 坂道を登ると、さらに「坂下宿」へと続きます。「鈴鹿峠」を控える坂下宿は街道有数の規模だったそうですが、今は当時の賑わいを知る由もなさそうです。
 坂下を出て、「片山神社」の参道を右に入る。杉山立の中の山道となり、八町二十七曲と呼ばれた鈴鹿峠越えの始まりです。何度もカーブしながら旧道を進む。やがて鏡岩との分岐に達し、さらに進むと突然、茶畑の広がる平地に出る。ここが「鈴鹿峠」で巨大な「石燈篭」が立っています。遂に近江の国に入りました。だらだらした坂を下ると、国道一号線とぶつかりました。さらにい時間半程で、坂上田村麻呂を祀る「田村神社」に着きました。
 すぐ側に、「道の駅」があり、昼食と休憩をとりました。道の駅の裏側に「土山宿」への旧道が走っていました。
(坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山、雨が降る)と鈴鹿馬子唄に歌われるほど、この辺りの天気は不安定といわれる。しかし、我々が通過する頃はカンカン照りのすごい天気でありました。
 「土山宿」も連子格子の町屋が延々と続いた趣のある宿場町の風情が残っていました。「伝馬館」(宿場や伝馬制度を紹介する施設)「本陣跡」等の遺構も良く整備保存されており、町ぐるみで保存活動が行われているように見えました。それから2時間後、城下町の「水口宿」に到着しました。




2009年7月20日:十日七日目
水口宿ー草津宿:25km
moviephot  本日は、石部宿を経て25km先の「草津宿」を目指します。天気の状況が思わしくありません。昨日はカンカン照りでありましたが・・・。どうも一雨来そうな感じです。水口宿の旧道入り口から歩行を開始いたしました。「関
「土山」と同様に古い町並みが形成されています。地域の町並みの整備に対する考え方も関、土山と同じではないか?と思われます。

 水口には、石田三成が初めて一国一城の主となったとされる記念すべき「水口古城(4万石)」が有り、現在は丘陵公園となっているようです。又、家康をはじめ徳川将軍は、しばしばこの地で宿泊し、家光上洛の際は、宿拍所としての御茶屋が建てられ、この「将軍家お茶屋」は水口藩の成立とともに水口城となり、宿場町は城下町として振わったようです。
 「五十鈴神社」の前に「一里塚」があり、ここの辺りが西見附跡、ここから街道は西へ真っ直ぐに「横田の渡し」へと向かいます。「横田の渡し」の手前の「北脇縄手の松並木」は素晴らしいものでした。野洲川にかかる横田橋を渡り、「JR三雲駅」を過ぎると、草津線路と併行して西へ向かいます。天井川となっている「大沙川や由良谷川の隧道」をくぐりながら進みます。その先の落合川を渡ると「石部宿」の東口跡です。(「京立ち石部泊まり」と言われ、京から江戸へ向かう旅人が最初に泊まるのがこの「石部宿」だったそうです。)
  「石部宿」は、土山、水口同様、旧街道の面影が残る宿場のようですが、本陣等の遺構は有りませんでした。
しかし、見通しのきかない鍵曲の道、蓮子格子等のある古い町家が軒を連ね、見ごたえは充分でした。右手に「近江冨士 (三上山)」を眺めながら、「草津宿」を目指します。
 草津は古来水陸交通の結節点で、東海道と中山道が分岐する要衝として中世後期に宿が成立したそうです。
追分を正面に見て、左側が中山道、右側が東海道であります。「本陣跡」「脇本陣跡」を見学し、近くに有るホテルに到着いたしました。





009年7月21日:十八日目
草津宿-京都「三条大橋」:26km
moviephot  いよいよ本日は、「大津宿」を経て26km先の最終目的地「三条大橋」を目指します。7時にホテルを出発、昨日、通過した追分」「を左に見て西へ向かいます。
 直ぐ右側に国の史跡に指定された「草津本陣跡」がありました。昔のままの遺構をそのまま残す貴重な構造物であるようです。元禄年間から明治までの宿帳が保存されており、浅野内匠頭や吉良上野介、徳川慶喜等が利用した記録が残っているようです。近くに「脇本陣跡」「「草津の蔵(街並み博物館)」等がありました。
 草津と隣の矢倉の氏神だった「立木神社」を過ぎると、黒門跡があり、ここが草津宿の 出入り口であったようです。「矢倉橋」を経て国道1号を渡ると「野路一里塚」
がありました。
 ここの辺りから土砂降りの雨になり、道を間違え、1号線の距離標識が小さな数字になっていくとN君が言います。草津へ後戻りしている事に気づきました。戻るまでに20分程のロスをしたようです。さらにミスしてしまい、旧道に戻るまでに苦労いたしました。傘をさしているため、標識を見過ごしたようです。
 「野路一里塚」より、約2時間ほど経ちやっと「瀬田の唐橋」を通過する事が出来
ました。その後、大津、山科を通り、土砂降りに中、目的地の「三条大橋」にたどり着くことが出来ました。まずは、旅館に直行、お風呂に入り、やっと落ち着いた次第です。
 その後、高校の(関西在住)同窓生の方々の「関西歓迎会」を催ようして頂きました。東京からもO君が駆けつけてくれ、楽しい一時を過ごさせていただきました。
誠に有難うございました。18日間にわたる「珍道中」も楽しい中で終了させていただきました。次回は「中山道」踏破を目指します。




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